2019年9月11日水曜日

9月11日にまつわる雑記

2001年9月11日。

今から18年前。

東京世田谷のレコーディングスタジオにいた。

そこに置いてあったテレビが海外のニュース番組を映していた。

飛行機がビルに突っ込む映像をいろんな角度から映していて、アナウンサーやレポーターが何やら解説していた。

僕はその映像を「映画の中のワンシーンを解説している」のだと思った。

そう思った理由には、英語がよく聞き取れなかったという事もあるけれど、あとで振り返ると「現実にそんな事が起こるはずがない」という意識も働いたのだと思う。

「そんな事」とは、その後に日本のメディアが報道したままの現実、つまり「海外のテロリストたちが飛行機を乗っ取って、ビルやペンタゴンや草原に突っ込んだ」という現実。

その時は「やらせ」とか「米政府による自作自演」とまでは考えなかったけど、自分たちがメディアを使ってやっていることと似た手法、似た匂いは感じていたように思う。

つまり、シナリオ、筋書きを作っておいて、その筋書きが現実になるようにメディアに情報を載せていって、大衆を扇動していくという手法。

「ヒットをつくる」とはそういう事だと思っていたし、今もそうだと思っている。

先に「あるCDがどのようなルートで、どのようなペースで売れていくか」の筋書きを作って、なるべくその通りの現実が生み出されていくように、メディアを使って大衆を誘導していく。

生々しく言えば、とりわけ大手企業がCDを作って売る行為や、新しいジュースや新しいお酒を売る行為は、そういったプロセスによって行われている。

工場で新しいアイテムを作り始める時点で、そのアイテムをどのように宣伝するかも並行して考え始めている。

制作費が1億円なら、宣伝費も1億円くらいかかっていても不思議ではない。

CMを使って、テレビ番組を使って、雑誌を使って、映画を使って、ラジオを使って、お店を使って「この商品は流行っている」という錯覚を引き起こしていく。

そこに「この商品を手にしないと、遅れていると思われる(仲間外れになる)」といった不安や恐れを少し、トッピングする。


・・・

イラク政府が大量破壊兵器を持っているらしいという、非常に曖昧な、根拠の非常に少ない仮説を元に、アメリカ政府はイラクに軍事侵攻し、非武装民を多数殺戮し、劣化ウラン弾という放射能兵器を大量に使用して環境を汚染し、イラク政府をある意味で乗っ取った。

・・・

「ブッシュ大統領はひどい。」
という事実すら、目くらましに思う。

2001年9月11日以降、アメリカ政府、というかアメリカ合衆国議会では、愛国者法と日本で呼ばれる、国民の権利を奪うような法律群が、怒涛の勢いで採択されていった。

多くの合衆国議員が、静かに賛成票を入れ続けた。

そのアメリカ政府から「年次改革要望書」と呼ばれる「日本をこのような形で変えていきなさい」という指示書のようなものを、小泉純一郎政権は受け取り続け、従い続けた。

その息子である小泉進次郎は、アメリカに留学していた際に、この「年次改革要望書」及び、その中身であるとも言われる「アーミテージ・ナイ・レポート」を作ったリチャード・アーミテージやジョセフ・ナイに学んでいる。

そんな小泉家を多くの人が支えているし、アーミテージやナイや彼らの在籍する大学やシンクタンクが、この現実を支えている。

・・・

「一人の悪いリーダーが事を進めている」という安い筋書きを信じる事で「変わるべきは、自分たちではなく、彼」という認識を固めていく。

そうやって、大衆は、来るべき変化を、(半分諦めながら)、ただ待つ事になる。

そして、災害が起きても、事件が起きても、ただニュースを見ながら、テレビの前で、あーだこうだ言うだけになっていく。

無力感の蔓延。

愚痴の蔓延。

その先に、不満を爆発させるための戦争が待っている。

のかもしれない。

この論法は確かに飛躍しすぎている、とは思う。

・・・

目くらましによって見落とされているのは「みんなで賛成したんだよね」という現実。

アメリカ合衆国議会の中で、イラクに侵攻することに反対票を入れた議員は、ほんの数人。

僕の知る限り、下院議員ではデニス・クシニッチ、上院議員ではバーバラ・リー。

他にいたかな?

・・・

僕は2005年9月11日、アメリカ合衆国ワシントンにいた。

デニス・クシニッチ下院議員(当時)が議会に提出する「平和省法案」の存在を議員たちに伝えて、賛成票を入れてもらうお願いをするために。

武力に頼らない外交を行うための公的機関としての平和省。

この法案の存在は世間にほとんど知られないままに、デニスは2013年に政界を引退した。

・・・

忘れもしない、2005年9月11日。

日本からのニュースで、選挙によって第二期小泉政権が始まると聞いた。

その現実に絶望しながら、ワシントンで行われた集会に参加していた。

国民全体の中のパーセンテージで言ったらごく少数に見えるけれど、実際に集まってみたら「こんなにいるのか」という数の人たちが、本気で戦争を止めようとしていた。

そして、合衆国議員会館のロビーを埋めつくす人たちが、それぞれの州から選出された議員の事務所を回って交渉を続けていた。

僕も一緒に議員会館を回った。

英語がほとんど分からない僕にも、彼らの本気と覚悟のエネルギーはひしひしと伝わって来る。

暴力に頼らない形でどうやって戦争を終わらせていくことができるのか、真剣に話し合っていた。

この日に行われた集会で撮った写真には、たくさんの白い玉が写っていた。

日本に戻ってきて、ある人に見せたら「それは”たまゆら”というものだよ」と教えてくれた。

過去や未来から集まってきた魂が写り込んでいるという話をすんなり受け入れることができたのは、その現場で、そういう空気を感じていたからかもしれない。

マルコムX、マーチン・ルーサー・キング。

「名もなき兵士」と記された数千、数万の墓に眠る人たち。

ワシントンには、ベトナム戦争の戦死者たちの名前が書き記された何十メートルにもわたる黒い壁がある。

その壁を写真に撮った時も、白い玉がたくさん映った。

・・・

玉たちは、どうしてやってきたんだろう。

何かを伝えにきたのだろうか。

・・・

国民の多くが戦争を望んでいる。

議会議員の大多数が、イラク侵攻に賛成票を投じた。

戦争を推し進めているのは、野蛮な暴君ではなく、従順な態度で、多数派であろうとする人々による一票の総和。

・・・

「人類史の中で、殺戮、戦争はずっと続いてきた」

十字軍による侵攻。

ナポレオンによる侵攻。

イングランド戦争。

フランス革命。

南北戦争。

源平の戦い。

武力と武力がぶつかりあう戦国時代。

うんざりするほどの回数にわたる殺し合いの連鎖。

・・・

人類史の中で、現代が最も「戦争による死者の数が少ない」という統計があるらしい。

(「ホモデウス」という本にそのことが書いてあるらしい)

読まずとも「そう言われてみればそうだろうな」とは思う。

ベトナム戦争が起こった頃、「もう飽き飽きだ」と思う若者は少なくなかったという。

ヒッピームーブメントや、約40万人集まったという「ウッドストックフェスティバル」は、戦争や、戦争に人々を扇動するような政治・経済から降りたい、外れたいと思う人たちによって支えられたとも言えると感じる。

降りるというより、外れるというより、本当のこと、真理、「人としてのあり方」を深く問うエネルギーのようなものが、加速的に生まれ育っていったようにも感じる。

・・・

もう、いくさはあきあきだ。

自分と戦うことにもあきあきだ。

他人と争うことにもあきあきだ。

争う経済ではなく、支え合う経済を。

自己否定ではなく、自己共感を。

禅、ヨガ、瞑想、マインドフルネス。

・・・

戦さの世の果てに、どんな世界が待っているのか。

・・・

be the change。

私はこれから、どのように変化し、どのように育っていくのか。

戦さに憂いた、戦さに飽きた魂は、どこに向かうのか。

本当はあの時、戦争には行きたくないと言いたかった。

本当はあの時、やりたくないと言いたかった。

浮かばれなかった魂が、玉になり、現実に写りこんでくる。

未来が見えなくても、「戦争に取って代わる代替案を出せ」と言われたら口ごもってしまうのだとしても「とにかく戦争はいらない」と言えたらいい。

シナリオを作って、人を操作する。

そんなやり方、もう通用しない。

そんなやり方、本当はもう、やりたいと思う人は少ない。

漫画家は、結末が見えなくても、描き始めるだろう。

音楽家は、曲の全体像が見える前に歌い始めるだろう。

画家は、絵の全体像が見えるまえに描き始めるだろう。

ヴィジョンが見えたら、夢が見えたら、声が聞こえたら、「それが現実世界の中にどのように出現するか」なんてわからなくても、表現し始める。

表現しながら、全体像が見えて来るのかもしれない。

表現するから見えて来るのかもしれない。

表現が、未来を呼ぶのかもしれない。

地球全体を描いた地図がなくても航海をした人たちが、地球が丸いことを発見した。

GPSや地図やシナリオや筋書きや、マニュアルやレシピを持たずに行く旅人。

まだ見ぬ未来は祈りの中に。

意乗りの中に。

「意」に宿る、心に湧く、いきいきした何かの生み出す波に乗るように、語り、動き、創造を重ねていく。


・・・

9月11日を忘れることは、これからも多分ないだろう。








2019年9月9日月曜日

染め日誌(葉月はじめ)


葉月はじめの染め日誌。


最近フェイスブックで「4年前にこんな染めをしてましたよ」といったかたちで、リマインドを受けることが何度かありました。

ストールや、褌や、腹帯。

4年前のことですが、随分前のことのように思います。

こういう染めをしていたということを忘れていましたし、
思い出す機会すらなかったように思います。













写真を見ることで、記憶が取り戻されました。

一方で、どうやって染めたのか、思い出せないものもあります。

全ては思い出せなくても、過去の自分の作品から刺激を受けることはありますし、新たな発想を得ることもあります。

僕は本を書くということをします。

本は、あとから読み返すことができます。

でも、染物は一点物ですから(本は一回書いたら何冊にも増やせます)、納品したら、二度と僕の手には戻ってきません。

ということで、たまに記録を取ることにしました。

以下の褌は、まさにfbの4年前くらいのいくつかの投稿から刺激を受けて作ったもの。






この褌は三宅商店に納品しました。

茜染め、藍染め、ベンガラ染めなどを施した麻褌は、基本的にはオーダーメイドでしか作っていないのですが、三宅商店にはこれからも継続して納品していくと思います。











この三足は、ヘンプ生地で作る地下足袋です。

足袋の中面は、それぞれ茜染め。

外面は、手前の一足は茜+藍錠+麻炭染めで、奥の二足は茜+藍錠染めです。





これは足袋の中敷き。

ビバークのひろこちゃんが作ったヘンプ中敷きに、藍錠と麻炭を塗って仕上げました。









この4本の褌は、生地は和紙糸布で織られたもの。

縫製はビバークのひろこちゃん。

染めは、茜+藍錠、茜、藍錠の三種類。

オーダー主は新潟の鎚起銅器作家の大橋保隆君。

和紙糸の布は、縫製もとても綺麗に仕上がりやすいし、染めの色乗りもかなりいいです!






これは、ヘンプのストール。

大判です。

150cm × 200cmあります。

オーダー主は、僕がソニーミュージックに在籍していた頃(1999年〜2002年)の、同期社員だった細っち。

僕は退社後に、色々な変遷ののちに草木染めをするようになりましたが、彼はソニーミュージック退社後に、実家の稼業であった織物工場で、新しく和紙糸で布を作ったり、和紙糸の布で靴を作っています。

そんな彼と17年ぶりに再会し、ストール、褌、足袋のオーダーを受けました。

このストールが彼への納品第1号。

17年たっても続く縁。

17年ぶりに始まる新しいコラボが、これから長い年月にわたって続いていく予感がしています。







染めの過程で生まれる染料、顔料を無駄なく使い切る方法として「栞」づくりが始まりました。

和紙糸の布や麻布を裁断する過程で、必ず少しの端切れが生まれます。

これらを活用して、ブックレット「ウランとみそ汁」「いのちとみそ」を販売する際にプレゼントする栞にすることにしました。

端切れを染めて、細かく裁断することで、天然布の自然染めの栞ができます。





戦後に始まった中津商店街のアーケードの屋根が、この夏に初めて撤去されました。

昨年一昨年の相次ぐ台風の影響でビリビリに破れていた屋根をどうするか、みなで話し合いました。

商店街につながる人同士が、ひとつのテーマについて話し合ったり考えたりする、貴重な機会だったように思います。

屋根を外すことがいいことなのか、違う方法はないのか、意見は完全に一致したわけではないようにも思います。

でも外してみて、実際に、遮るもののない中で注がれる日の光を浴びてみて、爽やかに吹き通る風を感じてみて、皆がそれぞれ晴れやかな気持ちになったような気がしています。

今までありがとう。

そして新しい光と風よ、ありがとう。

草木染めは、懐かしさと新しさを感じさせてくれます。

道を行くおじいさんやおばあさんは、懐かしいと言うし、若い子たちは新しいと言います。

これからも、僕は古き知恵や技を学ぶことを大事にしたいと思っていますし、それでもなお、新しいものは生まれていくのかもしれません。

また記録したいと思います。


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冨貴工房

冨貴書房

メールマガジン「冨貴電報」




2019年2月28日木曜日

落とし物を取りに

今日から愛知県岡崎にいます。

昨年8月3日に生まれた照晃と、産んだ栄里と共に。

僕たちを支えてくれた親戚や家族のようになった人たちにお礼と感謝を伝えていく日々でありたい。

あの頃、2ヶ月以上、岡崎に滞在していた。

予想を上回る滞在期間。

自然なお産を目指して一年以上準備してきたけれど、5月の時点でわかった身体的事情によって、吉村医院とトヨタ記念病院の両方に通院する日々。

激減する仕事量。

激増する家事、家庭を支えるために求められるエネルギー。時間、労力。

多分いろんな感情を抑えてきたし、見ないようにしてもいた。

我慢もしたし、麻痺もさせた。

その中には、意識的に、わかっていることと、わかっていないことがある。

お礼、感謝、ポジ。

悲しみ、不満、怒り、ネガ。

ポジに意識を向けていたら、ネガが湧いてきた。

昨日からマグマのように、色んな感情が湧いてきている。

お産や子育てというものの周辺(またはコア)にあるネガティブエネルギーと対峙しながら未消化になっているものも、肚の中で渦巻いている。

なかなかハードコアですね。

3月4日まで岡崎にいます。

あの時に落としてしまったもの、捨ててしまったもの、なくしてしまったもの、犠牲にしてしまったもの。

拾いに来ました。

丁寧に、扱い直して、また大阪に帰ります。















2019年2月1日金曜日

2017年に書いた日記(今読むと・・・^^;)

熱い日記だなー。

でもそういうドライブした意識だからこそ出てくる言葉もある。

ということで、ある知り合いがこの投稿に今になっていいね!と言ってくれて、そのおかげで発掘したので、せっかくですから貼っておきます◎

・・・

2005年にワシントンDCに行った。
日本政府が憲法9条を改定しようとしていることに危機を感じ、国際的な連帯を訴えるため。
そして、アメリカ政府の政策に真っ向から異を唱え、度重なる暗殺未遂を生き延びた下院議員デニス・クシニッチに会うため。
当時は「日本政府は戦争の準備をしている」と国内で訴えても、狼少年扱いを受けて、僕はちょっとふてくされていた。
「この国の中だけで活動してたら気が狂っちまう!」
と本気で思っていた。
(※若気の至り、時効ということでお許しを。)
誰もやらないから俺がやる、くらいの感覚で映像も編集してた。
この動画は、デニスが日本向けに語ってくれたインタビュー。
今見返しても「昨日撮ったインタビューだとしても違和感ない」内容。
つまり、今日本国内で起こっている様々は、10年以上前から続く計画の一部でしかない。
せっかくなので文字起こししてみる。
・・・
日本のみなさんは
日本が平和の文化を維持するためのモデルになることを
全世界が期待していることを 知るべきです
それは日本が世界へ贈ることができる
偉大なギフトです
そのギフトとは
平和的な文化の理解を世界に伝えることであり
それは我が国が必要としているものです
残念ながら
日本の憲法を
変えてほしいと思っている人たちがいます
彼らは憲法9条を変えようといいます
9条こそが日本の平和貢献を保っているのに
私たちはいま生きているこの時代を
しっかり見据えなければいけません
そうすれば
アメリカ政府が平和に貢献していないどころか
世界中に戦争原則を広げていることが分かります
日本のみなさんが 人類の連帯の名の下に
日本のためだけでなく 世界のために
憲法9条を宝として守ることが 大変重要なのです
(きくちゆみ)
「どうもありがとうございます
しかりアメリカから(改憲の)圧力がきていることを
知っていますか?
そして日本政府は 私たちよりも
ホワイトハウスの言うことを 聞く傾向があるのです
それに対して 私たちは何ができるでしょうか?」
私はアメリカ合衆国連邦議会の
一議員として発言しています
米国政府は イラクに関して間違いを犯しました
アメリカ国民は ウソをつかれました
私たちに攻撃もしていない国と
アメリカは戦争をしています
その結果 私たちとの間に何の問題もない人々に
惨禍をもたらしました
アメリカは
いまや非常に困難な時期を迎えています
アメリカの過ちを 日本が共有する理由は
どこにもありません
アメリカがこのような時期にあるときこそ
私たちは 人類連帯の名の下に
世界の人びとと 再結合するのです
今日 私たちの指導者たちは
国際社会から私たちを分離させようとしています
日本を国際社会から分離させてはいけません
世界平和への願望から 引き離してはいけません


・・・
昨年12月、メキシコ・カンクンで行われた「第13回生物多様性条約締約国会議(CBD/COP13)」に自分で作ったNGOメンバーとして参加した。
本当なら、2010年のCOP10以降、毎回参加するつもりだった。
でも、その”本当”を越える衝撃とダメージを、2011年3月11日以降背負い続けてしまった。
今もそう思っているけど、福島第一原発はいつ事故を起こしてもおかしくない状況に在り続けている。
家族や親戚や仲間たちが、その”いつ事故を起こしてもおかしくない原子炉”のそばに暮らしている。
そんな状況の中で、飛行機でこの列島を離れる事はできない。
それは燃え盛る火事の中、おでかけするようなもの。
そう思ってきた。
しかし、うすうす感じていたこともある。
国内で起こっている事が、海外の友人や仲間、活動家たちに全くと言っていいほど伝わっていないこと。
日本国民が世界の中で孤立を深めていること。
そして、2005年以降に感じてきた、企業や政府を介さずに作る「オルタナティブ・グローバリゼーション」の広がりに希望があるということ。
その連帯の中に自分たちがいないことへの強烈な違和感。
昨年「もう出かけてもいい」という声が聞こえた。
そして昨年訪ねたCaliforniaで、COP13の現場で、想像を遥かに越える手応えを感じた。
これからは、CBD/COPとその準備会合には出続けようと思う。
Californiaにも拠点を持とうと思う。
多分、今その意図を説明しても、全てを理解出来る人は多くないと思っている。
(※狼少年と言われたときと、その心はあまり変わっていない)
でも、理解出来る人、直感的にナイス!と思ってくれる人とは、これからの国際交流について、どんどん話をしたい。お金に余裕がある人は、渡航費のカンパも大歓迎。必ずDeepな土産をバックします。
・・・
日本の政治は世界から孤立している。
選挙だけが政治だと思っていて、政治とは誰を「選択するか」だと思わされている。
政治家や候補者との関係性の作り方も稚拙。
与えられた選択肢について、ワーワー言う。
それが議論だと思わされている。
テレビや新聞がそれを促す。
改憲か護憲か。
原発推進か反対か。
「そんな問いを立てたらモメるに決っている」
というような題目を投げられて、まんまと揉めさせられている。
作られた「政治のように見せかけたゲーム」をさせられている。
結果、国際政治の中で思い切り孤立をしている。
江戸時代の始まりに敷いた鎖国が、まだ続いてる。
当時の鎖国政策は、国家同士、企業同士の関係を断つためではなく、民衆を孤立させるために敷いた施策。
国籍を持たない者、持てない者、持つことを望まない者、海を渡って行き来する者、曖昧な者、囲われない者、言うことを聞かない者、国家の利益に貢献しない者、国家の宗教観に従わない者を、ばっさり切り捨て、囲い込みの柵をより強固にしたのが「鎖国」。
教科書で教わった鎖国制度とその意図についての情報は、
まさに「鎖国を維持するために与えた洗脳」でしかない。
今も”国際的な利権”にあやかる一部の政治家同士、官僚同士、企業同士のみが国際的な交流を続け、無党派の政治家、少数派の官僚、自治体、中小企業は、国際ネットワークからの締め付けを受けたまま孤立を続けている。
さらに「戦後、敗戦国である日本を管理する」という役割を持ってきたアメリカ政府は、今も国際会議の多くをボイコットしている。
そして、さまざまな国際条約や協定に、アメリカだけが批准しないというケースが増え続けている。
その”アメリカ政府の孤立”に引きずられるように、日本政府は同じく国際政治の中でさらに孤立を深めている。
国際会議に行って、目が覚める思いがした。
先住民、NGO、若者、女性グループ、自治体、企業、科学者、政府関係者、それぞれが、何を考え、何を計画しているか。
直接見て、聞くだけで、こんなにも現実感が変わるなんて、と思った。
そして、ここにアクセスしていない日本の市民活動は、やはり、かなり、孤立している、と思った。
日本の被ばくの現状、全然伝わっていない。
僕らの持っている大雑把な情報だけでも、かなりのインパクトを持って受け取られた。
「まじか。そんなことになってたのか。全然知らなかった。なんでお前らは今まで伝えに来なかったんだ。」くらいのことになってた。
やっぱり、ネットはネット。
現場で、直接語らわないと、腑には落ちていかないんだな。
アメリカの傘下で繰り広げられる今の鎖国は、かなりやばい。
膝突き合わせての国際交流が足りてない。
観光ではなく、上辺のやり取りではなく、ガチで語り合う時間を増やしていく。
今年の12月、COPの準備会合がモントリオールで開かれる。
来年7月も同じくモントリオールで会議がある。
そして来年12月にエジプトでCBD/COP14がある。
いま小さくとも生まれつつある国際会議で繋がった人たちとのネットワークづくり、やり続けていくつもり。
ボリビア人、台湾人、カナダ人、ドイツ人、、
彼らは言う。
「今、原発政策に変化を起こすためのネットワークを作って引っ張れるのは日本人だよ。」
そう言われて、大きく頷く自分の気持ちに正直にいたいと思う。
世界中の全てのウラン鉱山が閉鎖される未来から垂れ下がる糸を皆で辿りながら、新しくて懐かしい出会いとセッションが続いていく。
ローカリズムとグローバリズムが縦糸と横糸になって編み込まれる世界平和のタペストリーは、想像以上に多面的でサイケデリック。
鎖国政策くらいでは消えることない 、魂の記憶。
環太平洋を舟でめぐってきた、海洋民族としての血が騒ぐ。

2018年10月11日木曜日

有難き、3ヶ月ぶりの茜染め

10月10日、およそ3ヶ月ぶりに、冨貴工房で茜染めを行いました。

メインは、オーダーメイドの三品。

・妊娠祝いの10尺腹帯

・出産祝いの10尺おんぶ紐

・二十歳の誕生祝いの麻褌







染めながら、祝い、感謝、お礼、、、、
それらのエネルギーにつながることで自然にあふれる奉仕への思いが仕事を作るんだなとしみじみ実感しました。



僕の茜染めのやり方は、染液づくりに2〜3時間、染めている時間で4〜5時間かかります。

急かすことはできません。

何がどうあっても、これだけの時間をかける事は避けられません。

ある程度、作業効率を上げることが出来ますが、あとは自然のやることに任せるしかありません。

ある意味、諦めがつきます。

それは、大豆が育つには、それなりの季節の変化や、微生物たちのリズムに任せるしか無いのに似ているかもしれません。

そして、日々、なるべく早くという気持ちが無意識下に働いていて、その影響で「やりたくて始めたことがやりたくないことに変わる」ということや、喜びや奉仕の気持ちで始めたことが不満や不平を生んだりしていたということにも、改めて気づきました。

手仕事は、急かせない。

そして、速度を落とすことで、周りの景色が見えてきます。

脳の高速回転が静まって、五感とつながる事ができていくことを感じます。

その流れの中で、少しずつ、生地に色が入っていきます。

「見る」という行為への集中度が上がったことで色に変化を感じるのか、本当に色が変わったのか。

実際のところ、その境界線は曖昧です。

なぜなら色は、対象物だけではなく、観察者の網膜の状態や、見る角度、その双方の間にある光や空気の状態によっていかようにも変化するからです。

やはり茜染めは、僕にとって、とてもリトリートであり、瞑想です。

そのことを改めて実感しました。

そして昨日は、作業中に、向かいのネパール料理屋のネパール人スタッフから「ユニフォームの染めってしてもらえるの?」と聞かれ、となりの美容師さんから「緑に染めたりもできます?」と聞かれました。

近所からのオーダーはとても嬉しい。

色見本を見せたり、見積もりをとったり、細かなやりとりを日々、直接会って進められるし、染めたものを使っている姿を見ることもできます。

はたらく、とは、「はた(隣人)を楽(らく)にする」という言葉から来たもの。

なんていうことを思ったりしました。

そして今は、コミュニティとコミュニティをつなぐ時代。

意識のコミュニティでつながる、遠方に暮らす心の隣人たちに対しても、心をこめて染めをしていきたいと思いました。

そして昨日は、息子の誕生祝いに頂いた肌着も茜染めしました。




茜は平安時代、肌着に使われていたもの。

赤い根=あかねは、血流を促し、魔除けにもなったとのこと。

赤い色は、子宮の中で見ていた色で、子どもの好む色とも言われています。

頂いたお祝いの気持ちも、4時間以上染めていると、その中で有り難さがどんどん熟成していきます。

衣服を触る時間を増やす事の意味を思いました。

手洗い、手染めは、衣服への愛を増やす気がします。



染めの合間に、おむつの黄ばみを落としながら、
色を入れる作業と、色を落とす作業の並行に、頭がこんがらがりかけながら、、
生があり、死があることを思いながら、哀しみと喜びと、生と死の二重螺旋に思いを馳せる時間でもありました。


そして昨日は、伊丹の自宅では、冨貴書房スタッフのルミちゃんとハニーちゃんが栄里と照晃と、ブックレット「いのちとみそ」の製本、発送準備作業をしてくれていました。

それぞれ、予定時間を延長して作業してくれました。

そして、僕がいなくても家の昼食が持ち寄りポットラックによって、とても豊かになり、子どもの世話も手伝ってくれ、まさに家内制手工業という状況を作ってくれました。



家内が安全であるからこそ、外で仕事ができる。

仕事ができることの有り難さ。


仕事は「させていただいているもの」。

そのことを感じる一日に感謝。

感謝と御礼と、奉仕の心で、これからも仕事させていただきます。




2018年10月2日火曜日

ムーツタイム

息子が生まれて60日がたちました。

そろそろ、日記を再開しようと思っています。

どれくらいの頻度で書けるかわかりませんが。

この60日間、僕の脳細胞の中のとても多くが、おむつについて考えています。

産後すぐ、僕のそばには、寝たきりの妻と生まれたての息子がいました。

そんな中「僕が息子の世話を出来なかったら妻と息子は同じ部屋では暮らせない」という説明を受け、妻のご飯作りと、息子のおむつ交換とおむつ洗いが、僕の生活のほとんど全てになりました。

途中「病院内ではおむつを洗ってはいけない」という規約があることがわかり、婦長さんとがっちり話し合い、トイレとバケツのみを使うことと、「洗濯」という言葉を使わない事を条件に、おむつを手洗いする権利を得ることが出来ました。

その後も、使用後のおむつを手洗いし、2時間ほど浸水し、それからさらに手洗いするということを繰り返してきました。

そして、産後2週間を過ぎてからは、洗濯機という文明の利器の恩恵を受けています。

今は、手洗い→つけ置き→二層式洗濯機(なかなか大変!)での洗い→干す→取り込む→畳む→装着する→交換する→手洗いする、、、というループを継続しています。

今乾いたおむつが何枚あって、干してあるおむつが何枚あって、つけ置きしているおむつが何枚あるのかが、脳内データ容量の多くを占めています。

そして、使用後のおむつの手洗いの時間を、僕は「ムーツ・タイム」と呼んでいます。

少しずつ分かってきたことですが、この作業は、急いでやると、自分ひとりでブラック企業をしているような気分になります。

やらされている感が増してきたり、不満や不平の言葉が出来てきたりもします。

使用後のおむつの手洗いには、毎日、20分〜30分はかかります。

最近は、作業する水場に椅子を置いて、文字通り、腰をすえて作業することにしています。

急がず焦らずじっくり向き合っていると「うんちって深い!」という事に気づきます。

この作業している間、色々なことを思います。

自分の作ったご飯が、妻の体に入り、血になり、乳になり、息子の体に入り、腸を通って、おむつに排泄されて、そのおむつを洗っている。

環境から頂いたものが、僕と妻と息子を経由して、環境に還っていく。

そのプロセスの一つ一つに関わっていることに、もっと意識的でありたいという気持ちも湧いてきます。

彼の排泄物を見て触ることで、彼の体調がよくわかります。

排泄の頻度、量、質がよくわかります。

そこから、授乳をしている妻の体調、乳の出具合、息子とのコミュニケーションの状態も見えてきます。

手を動かしながら、色々な事に気づきます。

動かす手の中に、気付きがあり、宇宙があり、暮らしがある。

行う瞑想。

それがムーツタイムです。

・・・

「あーもう!紙おむつにしたい!」と思うときもあります。

「このまま布おむつを続けることは可能なのだろうか」という気持ちになることもあります。

そして、仕事と家事を両立していくことの大変さを、とても強く感じます。

一家族だけで育児をすることに無理を感じたりもします。

コミュニティの事、仕事の事、色々なことを思いながら手を動かしています。

「私だって、好き好んで紙おむつにしたわけではない」という隣人、友人の声も聞こえてきます。

「どうすれば、家族の食事や排泄の世話を、皆で楽しく支え合っていけるのか?」

ムーツタイムは、そんな問答を深める時間でもあります。

私だけの暮らしではなく、私達の暮らしを見つめていく。

今できること、できていないことを、見つめていく。

そして、今、家族の食事や排泄の世話を出来ていることの有り難さ、その機会をもらえていることの有り難さを、忘れずにいたいと思います。

・・・

最近のムーツタイムで気づいたこと。

手間のかかる茜染めを続けているうちに、自然に、洗濯を手洗いでするようになりました。

干す作業、アイロンする作業を好きになりました。

おむつを洗う作業や、干す作業、畳む作業に、すっと入れた理由は、草木染めを続けてきた日々にあるような気がしています。

「茜染めは、おむつ洗いのための下積みだったのか!?」

そうかもれませんね。

それでいいし、今の日々も、これからのなにかに、つながっていくのかもしれませんね。

風にそよぐムーツの回転するさまをみながら、そんなことを思っています。





改めて、息子が世界にアウトプットしている、最初の創造物に触れられる日々に感謝します。







2018年9月2日日曜日

被ばくの時代の向こう岸を目指す旅


ウラン鉱山の労働者の話をじっくり聞きたい。

ポリネシアやミクロネシアで行われた大気圏核実験という名の、実験ではない本番の影響で被ばくした人達や、その二世、三世の話をじっくり聞きたい。

ロシアで、ウクライナで、ベラルーシで行われている、チェルノブイリ原発事故の収束作業員やその子ども達の健康回復プログラムについて、じっくり話を聞きたい。

世界中の、インターネット環境のないようなところにこそ、被ばくの現実がある。

太平洋の小さな島々や、インドの奥地のウラン採掘場や、オーストラリア先住民族、アボリジニーが守ってきた聖地や、ネバダの砂漠にある声に触れたいと願う。

大気圏核実験は「白人の住んでいない場所でやるように」という取り決めの元に進められていた。

原発の立地計画は「反対運動の起こらなそうな場所、または反対運動が起きても孤立させられる場所」から順番に選定される。

そこここに、声なき声がある。

耳をそばだてないと聞こえてこない、小さな声がある。

その場所を訪ねないと聞こえてこない声がある。

それらの声を、しっかり聞き取りたい。

僕たちの世代がばらまいた放射性物質のインパクトを受けた人たちの声を、しっかり聞いて、受け止めたい。

そうしてこそ、核の時代を閉じることが出来る。

そう思えてならない。

その思いがいつまでたってもぬぐえない。

・・・・

「放射能汚染からどうやって命を守っていけるか」について、具体的な提案や実践例を分かち合いたい。

やってみなければわからないことについて、やる前から苛烈に議論するのではなく「実践」を共有し合うような場を持ちたい。

原発反対派とか、心配派とか、放射脳とか言われて、傷ついたり、人から傷つけられすぎた事で暴力的になってしまったりすることがある。

一人ひとりの声を落ち着いて、じっくり聞き会える場の大切さを思う。

鍼灸や漢方や、アーユルヴェーダやマッサージや快療法や楽健法を、じっくり実践できる場の大切さ。

リラックスできて、思っていることを口にできて、安全で安心な、シェルターのような場を作りたい。

それには、船がいいんじゃないか、と思っている。

その船旅に、世界の被ばく者を誘いたい。

彼らの住む場所のなるべくそばの港まで出向いていって、できればそこから住まいまで、訪ねていってお迎えしたい。

「世界のすべての場所から被ばくによる苦しみをなくす事を目指す船旅」を実現したいと思っている。

・・・

低線量被曝は、とってもデリケート。

鍼灸のように、身体にとって嬉しくない刺激が、生命力を高めるきっかけになることはある。

しかし、その量や浴びせ方にはとても注意がいる。

数十億年の間に石や岩がやっている放射線照射を、放射線を発見してたった50年ほどしかたっていない私達が、安易に取り扱うのはどうかと思ってしまう。

僕らの身体を構成する細胞組織は、超エネルギーの高い電磁線を受け止めるキャパを持っていないことは間違いない。

これらの物質やエネルギーは、細胞組織に強いインパクトを与えて、活性酸素を産んでからだを疲れさせたり老化させたり、免疫力を低下させる。

僕はそれが体内で起きていると感じているから「なるべく体内に取り込まない」という形で、住み分けをするようにしている。

そして、個人ではなく全体としても、放射性物質は地下深くに居るのが自然と思うので、元々の住み分け関係を維持したいと思う。

それでももし取り込んでしまったら、その影響を認識して、対処したいし、出来る僕たちでありたい。

味噌、梅干し、ドクダミ、味噌汁などを体内に取り込んで、酸化還元、抗酸化を助けたり、それらの物質を解毒、分解することを助けたりする。

・・・

放射能を気にしない人は、気にしなければいいとも思う。

そして、気にしないならしないで、放射能の影響を気にしている人の事も、スルーしておいてほしい。

せめて、攻撃しないでほしい。

そして、彼ら(僕ら?)が研究したり実践することを、止めないでほしいと思う。

僕は、誰がなんと言おうと、被曝しているという自覚がある。

高線量と言われる地域を訪ねるたびに体調がすぐれないということが続いて、初めて、自分は被ばくしているんだということがわかった。

そして今も、どんなに養生しても、明日死んでもおかしくない、とどこかで思っている。

でも、その感覚を受け入れてから「生きたい」という本能も、それまで以上に強く感じるようになった。

だからだろう。

塩炊きも、味噌づくりも、草木染めも、手間がかかる仕事をすることが苦じゃなくなった。

そして、いつか死んで分かれることになるであろうこの身体との儚い関係を、か弱い細胞達との一期一会を、今まで以上に大切にしようと心から思えるようになった。

「死が目の前にある」と気づいてから、生のありがたさが今までより分かった気がする。

そして「被ばく」を我がものとして受け止めて、そこから「生きよう」という意志を再認識したり、再生させたりしている人達と、「共に生きるための輪」をつなぎなおしていきたいと強く願っている。

その輪は、日本列島内にとどまらず、世界中の人達と育んでいくものだとも思っている。

・・・

世界に原発は何百基もある。

使用済み核燃料は、日本国内だけで約18000トンある。

核兵器も各国にどっさりある。

それらの産業に携わる労働者は数千万人~数億人単位で存在する。

「味噌汁がいいよ。」

「腸を詰まらせないほうがいいよ。」

そういうことを、実感を元に伝えたいし、味噌を作ったり、味噌汁を配ったり出来る状況も、作りたい。

味噌をどこかに貯めておいて、必要とする人に配れるようにしたい。

いつでも味噌汁の炊き出しができるようにしたい。

放射線、電磁波、紫外線、抗生物質、化学物質、様々な人工的な物質やエネルギーに過敏な人も増えている。

サナトリウムや保養所も、たくさん作っていけるだろう。

ウクライナ、ベラルーシには、国営の被ばく対策ための保養所がある。

1年中、子どもたちを受け入れる体制が出来ている。

日本で、そこまでいくのに時間はかかるだろう。

でも、一歩ずつ。

古民家再生と一緒にやっていけないだろうか。

とかなんとか。

・・・

そして今こそ、世界中の被ばく者とつながり合う時だという実感が大きい。

今は、そのための輪をつなぎなおす時。


その環の中で生きているという実感の元に、日本列島の中でやれることを、丁寧にじっくり、ひとつずつやっていく。

放射線の身体に与える影響、その研究を、噛み砕いたり、わかるように説明したり、していきたい。

味噌や漬物や野草や、一汁一菜や、よく噛むことや、よくからだを使うことなど、ダメージを受けた身体のちからを取り戻す生活の知恵も身に付けていきたい。

そして、原発や巨大産業に便り過ぎなライフスタイルを、手仕事、地域産業、自分たちで文化を作っていくようなライフスタイルにシフトさせていく道をつくっていきたい。

ウラン、セシウム、プルトニウム、強烈な鉱物粒子のインパクトを受けて「自分はどう生きるか」を問われている気がする。

答えはまだない。

問いは続く。

僕たちの時代が受け取った問いを、出し合って、聞きあって、受け止め合う時間をじっくり取っていきたい。