2018年4月25日水曜日

悩むことと、蛹になること。

新潟での保養、風フェスについて、の続き。

甲状腺検査の為に必要なマイクロUSBを買いに行く際に、スタッフで来ていた大学生に車を運転してもらった。

そこで小一時間、二人で語らう時間が取れた。

この時間がすごくよかった。

彼女は進路について悩んでいたんだけど、僕は、悩みも持たずに大人達の用意した選択肢から未来をチョイスするより、どうしたらいいものかと悩んでいる姿をこそ、正常だと思ったし、そう伝えた。

僕は、悩んでいるよ。

これからの未来について、もちろん希望を感じているけど、それは、受け身な希望じゃなくて、主体性を前提とした希望。

誰かがどうにかしてくれるかな、とか、未来は明るいかな、という希望ではなくて、自分で未来を作っていくという、覚悟と同質の希望。

その、後者の希望が生まれる泉の中には、悲しみとか、怒りとか、落胆なんかも含まれている。

その事を見ないふりする必要はないと思っている。

見ないふりを勧める人もいるけどね。

「ネガティブな事をイメージしたら、それを引き寄せる」とか。

僕は、議論をするつもりはないかな、そこについては。

そう思いたければ、そう思えばいいし、僕も、思いたいように思うようにする。

色んな角度から、色んな深さで、内面を見つめ続けたり、色んな角度から世界に関わったりを続けながら、思い込みを外す為の変革の機会の中に勇気を持って何度も飛び込んだりしながら、今はそう思っている。

これからこの思いが変わることはあるかもしれないけど、今はそう思う。

誰が何をどう思おうが、それは自由。

人の思いを操作しようとしたりすると、思い込みや思考停止状態の人を作ることになる。

それは危険だし、そんなことは望まない。

僕はあなたを操作しようとしないから、僕の事も操作しようとしないでくれと思う。

「今はそう思っている」ということを、お互い大事にしたいと思うから、意見の違う人のアドバイスは、受け取るけれど、ピンと来なかった場合は、それを食べないこともある。

白砂糖入りのおまんじゅうは、もらっても、有難く受け取って、食べないこともある。

そのバイブスは必要ない、と思ったら「はい。結構です。」と、言っていいと思うから。

原発も、もういらない。

戦争も、もういらない。

戦争を支援する法律も、もういらない。

それらを支える考え方も、もういらない。

ありがとう。そして、もういらないです。ということ。

さて悩み。

僕は好きなんだ、とにかく。

悩む人が。

悩むという状態が。

僕はその姿を、芋虫が蝶になる過程の中の、蛹のように感じたりもする。

蛹の体内はカオス。

それまでの体を形作っていた細胞組織が解けて、スープみたいになって、混沌とする。

その後に、それまでと全く違う、それまで全くなかったような組織が組み立てられていく。

悩む姿に、その美しさを感じる。

僕は、色んな人に話を聞いてもらうといいよ、と言った。

「聞いてくれる人、いるから。特に、ここ(風フェス)には、絶対いる。」と付け足した。

彼女は最初、拒んだ。

答がはっきりしない状態で話なんて聞いてもらえると思えない。

怒られたらどうしよう。

普通の大人はそんなことしてくれない。

なるほどなるほど、彼女の知る「普通の大人」は彼女の生きてきた世界の中で出会った大人なんだろう。

親、学校の先生、バイト先の上司。

果たして、この大人たちは「普通の大人」なのかな?

色んな大人がいるはずなのに、出会ったことがない種類の大人が、実は世界にはめっちゃくちゃたくさん、多様に存在しているはずなのに、「これが普通」と思わせてしまう社会があるんだな。

すごく気の毒に思った。

大人が、子供たちに「世界はこうなっている」という偏った価値観、世界観を植え付けている。

もし仮に、彼女が悩まなかったら、自動的に、そういう価値観、世界観のまま、いわゆる「普通の大人」を演じていくんだろうな。

何かを抑圧しながら、何かを我慢しながら。

その意識の根っこには「人は話を聞いてくれない」という考えが染み付いたままなのかもしれない。

それはすごく残念だし、申し訳なくも思った。

そうじゃない大人のあり方を、少しでもシェアしたいと思った。

で、更に親身(?)になって、話を聞いて、彼女が話を聞いてみたいと思う人が、風フェスの中にすでに数人いるということを知って、その人(友人)と彼女を引き合わせてみた。

そうしたら「話を聞いてみたいなんて言ってくれて、めっちゃうれしいー!」と喜んで受け止められ、大学生の彼女の周りには人だかりができて、彼女たちの話を聞く会、が立ち上がってしまった。

若者たちの力になれたら嬉しい、という大人はたくさんいるよ。

何かを教えたり、指示したりするのではなく、ただ話を聞いたり、求める事に応じてあげたいと思う大人はたくさんいる。

世界には、そういう人もいる。

その事が伝わって、本当に良かった。

子どもたちに絶望を与えてしまった世界を変えることに、ちょっと貢献できた気がした。

あと、僕が想像していた以上の受容力と、喜びによって彼女を受け止めてくれた仲間たちに、心から敬意と感謝を送りたいと思った。

話を聞くこと、大事だね。あらためて。

ついアドバイスをしそうになるけど、分析したりとか、提案したりとか、しがちになるけど、ただ受け止めて、自分の心が動くままに、相手に貢献していこうとすることが、自然な関係性づくりなんだなと思った。

ということで、書いてみたら、このエピソードだけで長文になってしまったので、今日はここで終わります。

続きはまた明日か明後日かに。




2018年4月24日火曜日

検査のデリケートさ。関わることと広めること。境界線を越えること。

新潟の阿賀野で行われた保養、風フェスの報告の続き。

この保養の最大の特徴は、ドクターによる健康相談と検査があること。

もちろん他にも特徴はあると思うけれど、医師や看護師がこんなに参加している保養は他に聞いたことがない。

そして、だからこそ、この保養の存在は知られにくい、とも思う。

広めにくい、と言ったほうが正確かもしれないけれど。

そして、広めればいい、知ってもらえばいい、とも思えない、ということも付け加えておきたい。

例えば食品の放射能汚染が発覚したとして、その情報の広め方については、とてもデリケートに扱ったほうがいいと思っている。

例えば「◎◎産の梅から◯ベクレル出た」と騒ぐ人がいる。

その言葉の使い方によって、その産地の作物全体を買い控える人が出てくるとしたら、これこそが風評被害と言えると思う。

よかれと思った行動が、逆効果を産むことがある。

この人、誰を助けたかったんだろう、と思う。

誰かを守って、誰かを犠牲にしてはいまいか、と思う。

また、梅のような(または梅干し)のような、1回に数グラムしか食べないものと、1回に数百グラム食べるようなものでは、同じ汚染度(◯ベクレル/kg)でも、影響は大きく異なる。
そういった補足、つまり実生活に落とし込んだ情報として渡す親切さも、大切だと思う。

生産者、産地への配慮がない発信に、僕は暴力性のようなものを感じる。

それは、動物愛護を叫びながら、肉を食べたり動物園に行く個人を精神的な病気に追い込まれるくらいにまで叩く構造とも似ていると感じる。

そういった事が、健康検査の現場周辺にもうごめいている。

保養に関わっている事がわかるだけで、左遷されたり、圧力をかけられたり、ハラスメントを受ける医療従事者がいる。

健康検査を受けた(または受ける)と言うだけで、地域の中で孤立する人がいる。

保養に来る、というだけでハラスメントを受ける人がいる中で、健康検査も受けるとなると、その圧力はさらに強くなる場合がある。

地元の経済を守りたい、原発産業を守りたいという思いによって、命を守りたいという個人が攻撃されている。

だから、基本的に風フェスでは、記念写真や集合写真に参加者さんが写り込む事はない。

医療従事者の姿も、ほとんど写ることはない。

ここに居る、ということがバレるだけで困る事が起こる。

今の社会は、そういう状況。

何かを守る為に、何かを攻撃する、ということが無自覚に起こっている。

それが現実。

だから風フェスの存在は、知ってほしいような、知られてはまずいような、とても微妙な状況に置かれている。

実際今回も、同じ町から、誰にも告げずにやってきて、現場で出会って「あー!来てたのー!」と言い合っている姿を見た。

こういうことは、少なくないんだよね。

悲しいけれど、これが現実。

そして、こういった現実を作ったのは、セシウムではなく、僕達の作った社会の有り様だと思う。

そして、だからこそ、変えていけるところがあるとも思っている。

伝え方、聞き方、理解の仕方、コミュニケーションのあり方。

さっき書いたような、汚染の状況や被ばくの状況の伝え方、受け止めた方、コミュニケーションのあり方を、もっともっと丁寧に、見つめ直していきたいと思う。

僕はこの4回、甲状腺検査の助手をしている。

最初は、 「え、いいんすか?素人すけど。」と思う心もあった。

と同時に、立ち会えること、関われること、医療班に含めてもらえることに、とんでもなく大きな嬉しさがあった。

自分のやれることの幅を、どこまでも広げていきたいと思っていたから。

関わってみて、「これは、関わったほうがいいな。」と思ったし、今は、「関わったほうがいいかどうか」ということの先の、「現場の何をどう改善できるか」という質的なところに意識が向いている。

検査をするのは医師や検査技師。

そして、検査の作業そのものの補佐をする助手がいる。
被験者さんにベッドに横になってもらったり、カルテを取ったり。

そして僕は、その仕事を時折やりつつ、メインはデータ管理とデータの利用。

1回目の時は、検査機器からデータをUSBメモリで取り出して、プリンタで印刷をして、受付で被験者さんに渡す係。

2回目の時は、風フェスに関わり続けていた甲状腺専門の医師が四国に引っ越した為、それまで心電図検査をしていた検査技師さんが甲状腺検査も兼任する事になったので、もし専門家への相談が必要な状況があったらメールでデータを四国に送る必要があり、このやりとりも僕が担当した。

書いてみるとややこしい話だけど、実際、このやりとりは大変だったなー。

検査と検査の合間に、データを抜き取って、PCでデータを変換して、送信して、そして電話も入れる。

ちなみに、このやりとりをしながら、各被験者さんの過去の検査結果を見つけ出して閲覧する作業も並行していた。

そして、やっていて思った。

これは、甲状腺の専門家ではなくても出来る仕事だし、「自分は甲状腺の専門家ではない」という引け目を感じて関わる事を辞めていたら、この現場をとんでもない仕事量と共に孤立させていたことになっていたかもしれないんだな。

検査の現場で大事だと思ったことはもう一つ。

それは、心のケア。

子どもをベッドに横たわらせる。

子どもの喉元に検査器が当てられる。

その姿を見守る母の眼差し。

勇気と覚悟と、不安と心配。

なんとも言えない、様々な感情が入り混じった心。

この場をなるべくリラックス出来る状況にするために、スタッフは心を配って会場デコレーションをしている。

検査スタッフが忙しそうにしていたら、親は心配に思うかもしれない。

気持ちが落ち着かないかもしれない。

大丈夫、リラックスしてくださいね、と言える空気を大切にしたい。

言える自分たちであることを、大切にしたい。

ここに関わることは、とてもデリケート。

何人もの涙を見た。

被験者だけの涙ではない。

検査技師、看護師、そして自分自身も含めて、とても心が動く現場。

この現場を知ってほしいと、安易には思えない。

ここを、守りたい。

そのほうが先だ。

広めるよりも、守ること。

と同時に、関われる人が増えたらいいとも思う。

複雑だね。

でも、この複雑さから逃げないでいたいな。

さて、今回も、大変だったなー。

今回は、検査中に電気屋に走ったりもした。

機器が変わったことで、データを印刷するための手間が増えた。







この、iPadみたいなハンディな検査機は、使いこなせれば素敵で便利な機械だろう。

でも、使いこなすために、当日の朝からの準備では、間に合わないところがあった。

朝のmtg中、この機器の中にインストールされているインストラクション(しかも元々英語で創られているものを、グーグル翻訳的なカタコト日本語に変換されたものだから、超わかりにくい)を急いで聞いて、速攻で必要な準備をするが、この機器からデータを抜き取って印刷するには、どうしても道具が足りないことがわかった。(具体的にはマイクロUSBが必要だった)

ということで、検査が始まる直前に電気屋に走り、検査中に戻ってきて、検査の合間に設定をし直して、データを抜き取ってプリントをするテストをして、何とか形になった。

ヒヤヒヤだったし、このヒヤヒヤのバイブスが、多少は現場に影響したんじゃないかと思っている。

と同時に、このような予測の範囲外の事は必ず起こるとも思っている。

だからこそ、その状況に関わる一人でいれてよかったと思う。

「ここは任せて」と言える領域を持てることができてよかったと思う。

現場の改善に対しての提案が出来るし、提案を聞く事も出来るし、それらの話し合いをまとめて、次回に活かす事も出来るし、その為の準備にも関われる。

なんとかなってよかったし、次はこの経験を活かして、よりよい対応が出来るとも思っている。


なんでこんなことを日記に書くかというと、医療の専門家でなくても、出来ることがあるし、現場の環境をブラッシュアップしてより良いものにしていく試行錯誤は、多分これからも、医療専門家だけではない関わり合いの中で、常に現在進行系で進んでいくと思うから。

そして、そのようであるということを、知ってほしいと思うから。

今回は、参加者の数が前回より少なかった為、検査と健康相談は午前中で終わった。

そして、各方面の専門家であるドクターと看護師同士が集まって語り合うランチがあり、その後は風フェス代表の真由美さんによる放射能の基礎講座があり、その後は、ドクターと医療班と参加者やスタッフの希望者が参加する茶話会をおこなった。

ということで、今日の日記はこれくらいにして、また続きを書こうと思います。

・・・

僕たちは無自覚なうちに、「自分に出来ることなんてないのでは」と思ってしまったりする。

でも、その境界線を踏み越えて関わってみると、何か一つは出来ることがあったりする。

アースデイ永田町を通じて、政治の素人である僕達にも出来ることがある事がわかったし、海旅キャンプを通じて保養なんてやったことのない僕達にも出来ることがある事がわかった。

そうやって、何度も何度も、境界線を踏み越えていくことが大切だと思う。

2018年4月23日月曜日

被ばくなき料理団、誕生。

一昨年からスタッフとして参加している新潟での週末保養「風フェス」がこの週末に開催された。

僕のポジションは、全体の運営サポート、食事班として夕食と朝食づくり、医療班として甲状腺検査助手、夜の時間に「養生と食の話」をする事、そして今回は二日目の午後に、参加しているドクターや看護師、スタッフ、参加者の垣根を越えた茶話会の進行役。

書き上げるといろいろやっているようだけど、これくらいの事を日常的にやっていたいとも思っているので、心理的にしんどさはまったくない。

全体の場作りは自分が最もやりたいこと。
社会を作っているのは自分たちだし、地域を作っているのも、コミュニティを作っているのも、イベントを作っているのも、自分たち。
場は誰かが作ってくれているもので、その上に乗っかって何かをさせてもらう、というスタンスには非常に強い抵抗感と違和感を覚える。

この抵抗感、違和感とは、もっと深くつながって、じっくり見つめたほうがいいんだろうな。誰かが作った場に無自覚に乗っかる、というスタンスに対して抱く感覚については、自分でも「なんなんだ、この強い怒り(悲しみ)は」とか自分でも思ったりするのでね。

あと食事。
食事作りは、めっちゃ楽しい〜!
みんなで作るのも大好き。
そして、みんなのために作るのも大好き。





養生を学んで自炊率が圧倒的に上がって、
海旅キャンプでごはん作りに関わるようになって、
時折仲間とやる合宿でさらに踏み込んでごはん作りをするようになって、
妊婦と胎児のごはんを作るようになって、
さらにそのモチベーションが上がっている。

生命を守りたいとか、生命に貢献したいとかいう思いを強く持つ人達の為に、
心を込めてごはんを作ること。
こんなに幸せな時間はない。

今回もめっちゃ楽しかったし、一緒に作るひとりひとりから、今回もたくさん学べた。

そして今回出会った「国境なき料理団」の本道さん、やばかったなー。
かなりやばかったなー。
ヴィーガン料理を世界中で作る彼女のトークもかなりよかったけど、
その後ふたりで話した時の会話の内容もかなりやばかった。

僕達がやっているアースデイ永田町にも、ぜひ来てほしいと思った。
彼女の企ては食卓で平和を作ること。
「食で平和を」って言っている人、僕は他にも知っている。
優劣を付けるわけじゃないけど、彼女のその企ての具体性と、覚悟の深さ、肚の座り具合、「それは、出来る」というブレのない確信に、かなり打たれた。
彼女の具体的な企ての内容については割愛するけど、多分僕は巻き込まれるだろう(笑)。巻き込まれたいとも思ったし。

正確に言うと、編み込まれる、かな。
一緒に銀河の織物を織っていく、そういう同志だと、すぐわかった。

そして、会場を離れる彼女を送り出す直前にパッと降りてきた言葉は「被ばくなき料理団」。

その場で一緒に料理をしていた仲間たちと速攻で「被ばくなき料理団」を立ち上げて、そのことを彼女に伝えたら、速攻で「私も入ります」と言ってくれた。

その後は速攻でチャネリング&企て開始。

世界のすべての場所から被ばくによる苦しみがなくなる事を目指す料理団。
帰り際の彼女に「団長は味噌っすね。微生物に導かれる感じで。」と伝えると、
「じゃ、団長の名前はミソ・コウジさんで。」
「結成式、やってください。」
と具体的な返答が速攻で帰ってきた。

気持ちいいやりとりだったなー。

その夜、ミソ・コウジのイメージキャラクター作り企画会議や、ミソコウジダンスの練習が楽しく始まった。

おそらく、僕とイラストレーターの団員とで「被ばくなき料理団(仮)」というタイトルの絵本を作ることになるかな。

結成式、必ずやります。

諸々、乞うご期待。

風フェスの報告、続く。




健康相談と被ばく対策。今の気持ち。


内部被ばくと外部被ばくの違い。

シーベルトとベクレルの違い。

基準値、しきい値。

政府や団体、組織ごとの被ばくの危険性に関する考え方の違い。

土壌汚染の実情。

食品汚染の実情。

もう少し、共有できていると思っていたなー。

意見が違う者同士でも、存在としては認め合えるということ。

心が傷ついているままでは、相手を尊重したり、意見の違う人の話が聞きにくかったりするということ。

自尊心が傷ついたままでは、大事だと思うことにも、一歩踏み出せなかったりすること。

自分が受け入れられているという気持ちが減っている状態だと、思っている事を口に出せなかったりするということ。

たけのこやよもぎやローズマリーのような、成長の速い植物は、土壌中のセシウムを吸着して濃縮しやすいということ。

海の魚より、川の魚のほうが、底を這うような魚や甲殻類のほうが、セシウムを濃縮しやすいということ。

毎日のみそ汁が、被ばくによって傷ついた腸の修復をしたり、セシウムによる血液の酸化を還元する助けになるということ。

高価な酵素ドリンクや、特別な設備を使った治療法はオマケみたいなもの(素敵だけど)、基本は、手作りの一汁一菜食が健康維持の要だということ。

薬もサプリも大事かもしれないけれど、それより大事なことは日々の暮らし方だということ。

何をするかも大事だけど、何をしていても、していなくても、お互いの存在を大切にしあうことが大事だということ。

原発事故から7年経って、、、いろんなことが巻き起こって、いろんな情報が飛び交っているけれど、、、もう一度、もう一度、改めて、基本に立ち返りたい。

原点で待ち合わせして、そこでゆっくり膝を突き合わせて、お互いを労いながら、みそ汁かお茶か酒(自由!)でも飲みながら、ゆっくり立ち返りたい。

前に進むというよりは、足元を見つめ直して、ひとつひとつのやれることとやりたいことを、丁寧に、何度でも、繰り返し繰り返し、やり続けようと思った。

going back to our roots

根っこでつながろう。

根っこにつながろう。

つながっているんだし。

根っこのまわりには膨大な菌が助ける豊かな土がある。

2018年4月20日金曜日

be the change, moved by love。

今日はこれからアースデイ永田町@参議院議員会館。

始まる前に、リマインド。

ここに来てる理由を思い出す。

5分くらいで書いて出かけよう。

・・・

大事なことを決める場の空気の重さがきつかった。

院内集会という形でイベントを開いたことがある。

その場には現役議員も呼んだ。

彼は福島第一原発事故の後、唯一原発の中に入った。

その前後、ずっと東電に質問を投げ続けた。

その粘り強さ。

原発を止めるための活動を、少しばかりでもやってきた身として、
その大変さ、しんどさ、よくわかるし、その覚悟も、よくわかる。

にもかかわらず、質疑応答の時間に飛んできたのは、
市民からの抗議、バッシング、アピール、議員への上から目線、批判。

感謝の声も、敬意の声も、聞こえなかった。

落胆した。

怒りが溢れた。

こんな思いを持ち込む場なら、僕はもう来たくないと思った。

二度と関わるものかと思った。

代議士をやる苦労、話し合いの席に着き続ける苦労。

わかっているのかなと、悲しくなった。

そして、院内集会を開く者の覚悟も、分かってもらえていないと思った。

人が作った場に、土足で上がってきて、ただ叫んで帰っていく。

そう思えてしまった。

そう思えた自分にも、肚がたった。

そして数週間、イライラもモヤモヤも収まらなかったけど、、

永田町にいる人達や、永田町に行こうと言っている仲間の姿を見て、

「あの場でこそ、自分たちが変化にならなければ」という気持ちが最後に残った。

あそこでこそ、話し合いの作法を提案したり、実践したりしたい。

労い、感謝し、癒やし、敬意を持って話を聞ける場を作ること。

それができる自分たちになっていくこと。

それがしたくて、ここにいる。

そんな感じ。

今日もみんなで、道を作ろう。

仲間がいるから大丈夫。

ひとりひとりにリスペクト。

be the change, moved by love。

2018年4月19日木曜日

春土用三日目。意とつながるキャンペーンのお知らせ。

今日は春の土用3日目。

冬から春に転じる土用や、夏から秋に転じる土用は、とりわけ派手な方向転換の時と感じる。

そして春から夏への土用と、秋から冬への土用は、前者の土用たちよりは、感得しにくい気がする。

そして、だからこそよいのだ、とも思う。

意識しにくいもの、意識の深層に沈んで見失いがちなものを掴み取ったり、見直したり、質感を再認識する時として捉えている。

木火土金水の中の土は、「五神」の中の「意」にあたる。

「五神」は精、神、魂、魄、意からなっていて、人間の精神的な部分を司っている。

この中の、土にあたるのが意。

五行の中心は、土。

土があってこそ、回転と循環が行われる。

あらゆるものは土に帰って、土から生まれる。

そして五神の中心は、意。

意図、意識、意志が回転と循環を促す。

「意」へのチェックインをする18日間が、一昨日から始まった、と思っている。

僕の土用の楽しみのひとつは、「意」と寄り添う事を楽しむこと。


意識的に食べること、
やっていることの意図を見直すこと、
ひとつひとつ、意志をもって行うこと、
自分の意志が現実を創り出しているということを再認識すること。

意識的な呼吸、意識的な咀嚼、意識的な対話、意識的に聞く事、意識的に話す事。

意識の水面下にあるものにアクセスするような、静かな時間をとること。

魂と、心と、肉体のバランスをとること。

意という中心の引力を発動させることで、三つ巴の円環がきれいに整う気がする。

この三位一体のバランスをつなぎとめるのは、意志の力。

ソイル、ソウル、ソサエティ。

土と魂と社会。

この三位一体のバランスをつなぎとめるのも、意志の力。

willは、未来を示す単語であると同時に、意志を示す単語でもある。

意志が未来を作ってきた。

誰かの意志か、自らの意志。

誰かの意志に乗るのか、自らの意志に乗るのか。

誰かが決めたことだからやるのか、道徳に沿っているからやるのか、
法律で決められているからやるのか、慣習だからやるのか、
やりたいからやるのか。

意を見つめるキャンペーン。

毎回この時期が好きでたまらない。

いつもいいタイミングでやってくる。

先人たちのキャンペーン時期の設定と、その内容は、いつもいつもヤバすぎる。

ありがたき叡智。

あって当たり前ではない、意識的に生きてきた先人たちが残してきた有り難き叡智を、
自分流にアレンジし続けることで、「先祖がやってきたことだからやる」のではなく、
俺がやりたいからやっているキャンペーンに仕立て上げる。

そうやって、人類の進化は続いていくんだろう。

客観的に見ても、今を生きる僕達の在り方は、進化の最先端を担っている。

時代のエッジに生きる僕達の意や、いかに。

今を生きる自分たちの、生き生きした意志が未来を引き寄せる。

未来に向かう道はいつでもここに開かれている。




2018年4月18日水曜日

底に在るものに触れたままで

継続的なコミュニティ作りをしていると、「これは世界の縮図だな」と思うことがある。

アースデイ永田町しかり、冨貴工房しかり、みそ部しかり、海旅キャンプしかり、ソーヤー海君や三宅洋平君と作っている名前のつけようのない何かもしかり。

もちろんパートナーシップや家族関係も、しかり。

意図を持って向き合えば向き合うほどそう思う。

ふと箱庭療法を連想する。

自分達のコミュニティの中に、世界の様々な場所で起こっている出来事や、感情や、関係性におけるテーマを、引き込んでいく、引き受けていく、担っていく。

引き込んで、引き受けて、担って、我が身のように喜んだり、痛んだりする。

そしてその体験から、何かを得て、何かを収穫して、越えていく。

我が身を成長させていく。

コミュニティを成長させていく。

そうやって世界全体が育つ事に貢献していく。

治療と成長は紙一重だなと思うことがある。

進化には、痛みが伴うものなんだなと思うことがある。

古いOSを脱ぎ捨てて、新しいOSを導入していく、出会いと、別れ。

死にゆくものへの悲しみと、産まれくるものへの喜び。

悲しみと喜び。

嘆きと祝い。

片方だけに溺れる事がないようにありたいと思うし、そうならないための、コミュニティに属さない、孤独な自分と過ごす時間も空間も、大切にしたいと思う。

暗い話になってしまったようだけど、暗い話を恐れないでほしいとも思う。

闇に潜む事を、恐れないでいたいと思う。

暗い話をした時に、反射的にアドバイスをくれたり、励ましてくれる事があるけれど、それを嬉しいと思わない事も少なくない。

川にも海にも底があるし、光を当てたら必ず闇や影ができる。

世界の全体を愛するなら、そこに触れていること、そこにいる存在と、ただ一緒にいること、そこに在る存在の息遣いを感じることは、とても大切なことだと思っている。

意識の深層にあるものに、触れていたい。

それが今の僕の中にある、最も強い気持ちかもしれない。

世界に溢れる涙を溜め込まずに泣き切り、世界に溢れる喜びを喜び切りたいと心から願う。


祝島から見た朝日が原発建設予定地の海岸を照らしていた

2018年4月16日月曜日

オフラインの日々、繋がり直す日々

千葉県いすみにある「パーマカルチャーと平和道場」で一週間を過ごしてきました。

釜戸をいちから組み、薪を割り、煮炊きをしながらの共同生活。

インターネットや携帯電話はほぼ使わずの日々は、感覚を研ぎ澄まし、時にはその研ぎ澄まされた心によって、深く傷ついたり、ひどく悲しんだりすることも時にはありました。

感覚を解放する中で感じる傷は、実は今までの生活の中で作ってきたそれであり、正確に言うと感覚を開いた中で味わう痛みは、過去の傷のうずきのようなもの。

それを見つけて、深く見つめて、それと共にいる時間をとることで、自然治癒の力が経過を促す。

そのプロセスがオフラインの時間の中で起こることを感じ続ける日々でした。

そしてそれ以上に実感するのは、感覚を開くことでわかる、鳥の声の美しさ、風の音の壮大さ、炎の力強さ、水の清らかさ、自然の神秘の計り知れなさ。

生態系の中に生きるひとつひとつの命との繋がりの深さ。

ある農夫が読んだ詩に心が震えて涙した。

その涙は、野菜や野菜が育つ大地と自分とがあまりにも遠い関係になってしまったことからくる悲しみであり、そのことに気づいて出会い直した喜びであり、農夫の心に共鳴する心の振動でもありました。

大地の上で起こっているきめ細かな変化を喜びながら野草を摘み、土を耕す。

心の中で起こっているひとつひとつの変化を感じ取りながら、日々を過ごす。

自分の中にある自然を思い出す。

自然の巡りを感じていたら、体は自然に動き出すということを、みそ汁や玄米粥を作ろうという思いが自然に湧いてくる中でしみじみ実感した。

自然治癒力への信頼を深める、自然と自分とを深く見つめ直す機会を受け取ることが出来たことへの感謝と共に、世界を養生していく生き方をさらに深いものにしていきたいという気持ちが、自然に湧いてきている事をお祝いしています。




2018年4月9日月曜日

魂、心、肉体。本当に相手を大切にするために。

断食あけて、今回も色々な気づきがありました。

この数ヶ月、妊娠初期の食欲を落とした妻の残したごはんを食べるようになったくらいから、母子を支えるためにも沢山食べよう、という、今思えば目的と手段が一致しているのかイマイチ不明な努力を続け、腸内に今まで以上に食べものを入れていた事に気づきました。

腸はちょっと疲れていたし、食べる量が増えたことで、肉体、心、魂のバランスの中で肉体ばかりが強化されて、ちょっとしたマッチョイズムに入りかけていたことも感じました。

人は強くあるべき、みたいな感覚かな。

そう信じてるわけではないのに、肉体優位になることで、心や魂が肉体の強さに服従させられてしまうようなバランスになりかけていたような気がします。

断食をするという過程の中で、人は弱さを見せることになります。

それによって生まれる自然な助け合い。

生姜湿布や温熱療法やお灸やマッサージをしあう時間の暖かさ。

弱さは、コミュニティの中で支え合い、貢献しあう温かい関係性を育む大切な要因なんだな。

そのことをしみじみ再実感しました。

自分の弱さを見せること。

それができる、無防備な状態になれる関係性。

強さによって作られるコミュニティと、弱さによって作られるコミュニティ。

そんなことを思いながら、今日から千葉のいすみのパーマカルチャー平和道場で1週間の合宿。

僕は食材の手配と、食事のオーガナイズ。

生姜湿布にマッサージに草木染めにみそ作りをやりながら、日々煮炊きをするのでしょう。

妻の産前産後に食事を作り続け、心身をいたわり続けられる自分になっていく、大切なプロセスに立っているように感じます。

相手を大切にすること。

コミュニティを大切にすること。

口で言うのは簡単だけど、実践するのはなかなか、ね。

その実践の中で試行錯誤、右往左往する事を、今日からも楽しく引き受けていきたいと思います。



2018年4月7日土曜日

食を愛するからこその断食。止まることの大切さ。

今日はこれから断食合宿。

断食って、食べることを大事にする人にこそ、お勧めしたいと思っています。

食べられるということがどれだけ有り難いことか、しみじみ実感できる。

当たり前と有り難し、の関係。

有り難いとは、有って当たり前ではないという事を実感する時に湧いてくる言葉なんだと思う。

食を断つことで、自分は食べることができているおかげさまで生きているということと、食べなくてもすぐに死ぬわけじゃないということが、同時にわかる。

自分の中に、死への潜在的な恐怖があったということにも気付ける。

そして、食を断つことで、何を食べようかとか、何を作ろうかということを考える時間がなくなって、時間のスペースが一気に増える。

時間のスペースと、腸内環境のスペースが同時にふえる。

立ち止まる事の大切さ。

普段当たり前にやっていることを見つめ直す事の大切さを思う。

断食をするたびに、身の回りに有るもの一つ一つへの感謝がふえていく。

あと、断食をしてエネルギーが下がると、肉体と精神のバランスが取れる気がする。

肉体優位になって心を犠牲にしながら動くということが、できなくなる。

心に我慢をさせて、無理して働く、みたいなことができなくなる。

断食中は、怒る気力もなくなる。

そうすると「怒る必要の無いことに腹を立てていた自分」に気付く。

人のやっていることにいちいち同調して過剰に腹を立てたり悲しんだりしてた自分の癖に気づく。

食べるために充てていた時間を今日は、生姜湿布、ヨガ、傾聴、散歩、マッサージ、呼吸法などに充ててみる。

動いている間に聞こえてこなかったいろんなものに耳を傾けてみようと思う。

しみじみ、止まるって大事だな。

定期的な断食、これからも続けていこうと思う。