2018年10月11日木曜日

有難き、3ヶ月ぶりの茜染め

10月10日、およそ3ヶ月ぶりに、冨貴工房で茜染めを行いました。

メインは、オーダーメイドの三品。

・妊娠祝いの10尺腹帯

・出産祝いの10尺おんぶ紐

・二十歳の誕生祝いの麻褌







染めながら、祝い、感謝、お礼、、、、
それらのエネルギーにつながることで自然にあふれる奉仕への思いが仕事を作るんだなとしみじみ実感しました。



僕の茜染めのやり方は、染液づくりに2〜3時間、染めている時間で4〜5時間かかります。

急かすことはできません。

何がどうあっても、これだけの時間をかける事は避けられません。

ある程度、作業効率を上げることが出来ますが、あとは自然のやることに任せるしかありません。

ある意味、諦めがつきます。

それは、大豆が育つには、それなりの季節の変化や、微生物たちのリズムに任せるしか無いのに似ているかもしれません。

そして、日々、なるべく早くという気持ちが無意識下に働いていて、その影響で「やりたくて始めたことがやりたくないことに変わる」ということや、喜びや奉仕の気持ちで始めたことが不満や不平を生んだりしていたということにも、改めて気づきました。

手仕事は、急かせない。

そして、速度を落とすことで、周りの景色が見えてきます。

脳の高速回転が静まって、五感とつながる事ができていくことを感じます。

その流れの中で、少しずつ、生地に色が入っていきます。

「見る」という行為への集中度が上がったことで色に変化を感じるのか、本当に色が変わったのか。

実際のところ、その境界線は曖昧です。

なぜなら色は、対象物だけではなく、観察者の網膜の状態や、見る角度、その双方の間にある光や空気の状態によっていかようにも変化するからです。

やはり茜染めは、僕にとって、とてもリトリートであり、瞑想です。

そのことを改めて実感しました。

そして昨日は、作業中に、向かいのネパール料理屋のネパール人スタッフから「ユニフォームの染めってしてもらえるの?」と聞かれ、となりの美容師さんから「緑に染めたりもできます?」と聞かれました。

近所からのオーダーはとても嬉しい。

色見本を見せたり、見積もりをとったり、細かなやりとりを日々、直接会って進められるし、染めたものを使っている姿を見ることもできます。

はたらく、とは、「はた(隣人)を楽(らく)にする」という言葉から来たもの。

なんていうことを思ったりしました。

そして今は、コミュニティとコミュニティをつなぐ時代。

意識のコミュニティでつながる、遠方に暮らす心の隣人たちに対しても、心をこめて染めをしていきたいと思いました。

そして昨日は、息子の誕生祝いに頂いた肌着も茜染めしました。




茜は平安時代、肌着に使われていたもの。

赤い根=あかねは、血流を促し、魔除けにもなったとのこと。

赤い色は、子宮の中で見ていた色で、子どもの好む色とも言われています。

頂いたお祝いの気持ちも、4時間以上染めていると、その中で有り難さがどんどん熟成していきます。

衣服を触る時間を増やす事の意味を思いました。

手洗い、手染めは、衣服への愛を増やす気がします。



染めの合間に、おむつの黄ばみを落としながら、
色を入れる作業と、色を落とす作業の並行に、頭がこんがらがりかけながら、、
生があり、死があることを思いながら、哀しみと喜びと、生と死の二重螺旋に思いを馳せる時間でもありました。


そして昨日は、伊丹の自宅では、冨貴書房スタッフのルミちゃんとハニーちゃんが栄里と照晃と、ブックレット「いのちとみそ」の製本、発送準備作業をしてくれていました。

それぞれ、予定時間を延長して作業してくれました。

そして、僕がいなくても家の昼食が持ち寄りポットラックによって、とても豊かになり、子どもの世話も手伝ってくれ、まさに家内制手工業という状況を作ってくれました。



家内が安全であるからこそ、外で仕事ができる。

仕事ができることの有り難さ。


仕事は「させていただいているもの」。

そのことを感じる一日に感謝。

感謝と御礼と、奉仕の心で、これからも仕事させていただきます。




2018年10月2日火曜日

ムーツタイム

息子が生まれて60日がたちました。

そろそろ、日記を再開しようと思っています。

どれくらいの頻度で書けるかわかりませんが。

この60日間、僕の脳細胞の中のとても多くが、おむつについて考えています。

産後すぐ、僕のそばには、寝たきりの妻と生まれたての息子がいました。

そんな中「僕が息子の世話を出来なかったら妻と息子は同じ部屋では暮らせない」という説明を受け、妻のご飯作りと、息子のおむつ交換とおむつ洗いが、僕の生活のほとんど全てになりました。

途中「病院内ではおむつを洗ってはいけない」という規約があることがわかり、婦長さんとがっちり話し合い、トイレとバケツのみを使うことと、「洗濯」という言葉を使わない事を条件に、おむつを手洗いする権利を得ることが出来ました。

その後も、使用後のおむつを手洗いし、2時間ほど浸水し、それからさらに手洗いするということを繰り返してきました。

そして、産後2週間を過ぎてからは、洗濯機という文明の利器の恩恵を受けています。

今は、手洗い→つけ置き→二層式洗濯機(なかなか大変!)での洗い→干す→取り込む→畳む→装着する→交換する→手洗いする、、、というループを継続しています。

今乾いたおむつが何枚あって、干してあるおむつが何枚あって、つけ置きしているおむつが何枚あるのかが、脳内データ容量の多くを占めています。

そして、使用後のおむつの手洗いの時間を、僕は「ムーツ・タイム」と呼んでいます。

少しずつ分かってきたことですが、この作業は、急いでやると、自分ひとりでブラック企業をしているような気分になります。

やらされている感が増してきたり、不満や不平の言葉が出来てきたりもします。

使用後のおむつの手洗いには、毎日、20分〜30分はかかります。

最近は、作業する水場に椅子を置いて、文字通り、腰をすえて作業することにしています。

急がず焦らずじっくり向き合っていると「うんちって深い!」という事に気づきます。

この作業している間、色々なことを思います。

自分の作ったご飯が、妻の体に入り、血になり、乳になり、息子の体に入り、腸を通って、おむつに排泄されて、そのおむつを洗っている。

環境から頂いたものが、僕と妻と息子を経由して、環境に還っていく。

そのプロセスの一つ一つに関わっていることに、もっと意識的でありたいという気持ちも湧いてきます。

彼の排泄物を見て触ることで、彼の体調がよくわかります。

排泄の頻度、量、質がよくわかります。

そこから、授乳をしている妻の体調、乳の出具合、息子とのコミュニケーションの状態も見えてきます。

手を動かしながら、色々な事に気づきます。

動かす手の中に、気付きがあり、宇宙があり、暮らしがある。

行う瞑想。

それがムーツタイムです。

・・・

「あーもう!紙おむつにしたい!」と思うときもあります。

「このまま布おむつを続けることは可能なのだろうか」という気持ちになることもあります。

そして、仕事と家事を両立していくことの大変さを、とても強く感じます。

一家族だけで育児をすることに無理を感じたりもします。

コミュニティの事、仕事の事、色々なことを思いながら手を動かしています。

「私だって、好き好んで紙おむつにしたわけではない」という隣人、友人の声も聞こえてきます。

「どうすれば、家族の食事や排泄の世話を、皆で楽しく支え合っていけるのか?」

ムーツタイムは、そんな問答を深める時間でもあります。

私だけの暮らしではなく、私達の暮らしを見つめていく。

今できること、できていないことを、見つめていく。

そして、今、家族の食事や排泄の世話を出来ていることの有り難さ、その機会をもらえていることの有り難さを、忘れずにいたいと思います。

・・・

最近のムーツタイムで気づいたこと。

手間のかかる茜染めを続けているうちに、自然に、洗濯を手洗いでするようになりました。

干す作業、アイロンする作業を好きになりました。

おむつを洗う作業や、干す作業、畳む作業に、すっと入れた理由は、草木染めを続けてきた日々にあるような気がしています。

「茜染めは、おむつ洗いのための下積みだったのか!?」

そうかもれませんね。

それでいいし、今の日々も、これからのなにかに、つながっていくのかもしれませんね。

風にそよぐムーツの回転するさまをみながら、そんなことを思っています。





改めて、息子が世界にアウトプットしている、最初の創造物に触れられる日々に感謝します。







2018年9月2日日曜日

被ばくの時代の向こう岸を目指す旅


ウラン鉱山の労働者の話をじっくり聞きたい。

ポリネシアやミクロネシアで行われた大気圏核実験という名の、実験ではない本番の影響で被ばくした人達や、その二世、三世の話をじっくり聞きたい。

ロシアで、ウクライナで、ベラルーシで行われている、チェルノブイリ原発事故の収束作業員やその子ども達の健康回復プログラムについて、じっくり話を聞きたい。

世界中の、インターネット環境のないようなところにこそ、被ばくの現実がある。

太平洋の小さな島々や、インドの奥地のウラン採掘場や、オーストラリア先住民族、アボリジニーが守ってきた聖地や、ネバダの砂漠にある声に触れたいと願う。

大気圏核実験は「白人の住んでいない場所でやるように」という取り決めの元に進められていた。

原発の立地計画は「反対運動の起こらなそうな場所、または反対運動が起きても孤立させられる場所」から順番に選定される。

そこここに、声なき声がある。

耳をそばだてないと聞こえてこない、小さな声がある。

その場所を訪ねないと聞こえてこない声がある。

それらの声を、しっかり聞き取りたい。

僕たちの世代がばらまいた放射性物質のインパクトを受けた人たちの声を、しっかり聞いて、受け止めたい。

そうしてこそ、核の時代を閉じることが出来る。

そう思えてならない。

その思いがいつまでたってもぬぐえない。

・・・・

「放射能汚染からどうやって命を守っていけるか」について、具体的な提案や実践例を分かち合いたい。

やってみなければわからないことについて、やる前から苛烈に議論するのではなく「実践」を共有し合うような場を持ちたい。

原発反対派とか、心配派とか、放射脳とか言われて、傷ついたり、人から傷つけられすぎた事で暴力的になってしまったりすることがある。

一人ひとりの声を落ち着いて、じっくり聞き会える場の大切さを思う。

鍼灸や漢方や、アーユルヴェーダやマッサージや快療法や楽健法を、じっくり実践できる場の大切さ。

リラックスできて、思っていることを口にできて、安全で安心な、シェルターのような場を作りたい。

それには、船がいいんじゃないか、と思っている。

その船旅に、世界の被ばく者を誘いたい。

彼らの住む場所のなるべくそばの港まで出向いていって、できればそこから住まいまで、訪ねていってお迎えしたい。

「世界のすべての場所から被ばくによる苦しみをなくす事を目指す船旅」を実現したいと思っている。

・・・

低線量被曝は、とってもデリケート。

鍼灸のように、身体にとって嬉しくない刺激が、生命力を高めるきっかけになることはある。

しかし、その量や浴びせ方にはとても注意がいる。

数十億年の間に石や岩がやっている放射線照射を、放射線を発見してたった50年ほどしかたっていない私達が、安易に取り扱うのはどうかと思ってしまう。

僕らの身体を構成する細胞組織は、超エネルギーの高い電磁線を受け止めるキャパを持っていないことは間違いない。

これらの物質やエネルギーは、細胞組織に強いインパクトを与えて、活性酸素を産んでからだを疲れさせたり老化させたり、免疫力を低下させる。

僕はそれが体内で起きていると感じているから「なるべく体内に取り込まない」という形で、住み分けをするようにしている。

そして、個人ではなく全体としても、放射性物質は地下深くに居るのが自然と思うので、元々の住み分け関係を維持したいと思う。

それでももし取り込んでしまったら、その影響を認識して、対処したいし、出来る僕たちでありたい。

味噌、梅干し、ドクダミ、味噌汁などを体内に取り込んで、酸化還元、抗酸化を助けたり、それらの物質を解毒、分解することを助けたりする。

・・・

放射能を気にしない人は、気にしなければいいとも思う。

そして、気にしないならしないで、放射能の影響を気にしている人の事も、スルーしておいてほしい。

せめて、攻撃しないでほしい。

そして、彼ら(僕ら?)が研究したり実践することを、止めないでほしいと思う。

僕は、誰がなんと言おうと、被曝しているという自覚がある。

高線量と言われる地域を訪ねるたびに体調がすぐれないということが続いて、初めて、自分は被ばくしているんだということがわかった。

そして今も、どんなに養生しても、明日死んでもおかしくない、とどこかで思っている。

でも、その感覚を受け入れてから「生きたい」という本能も、それまで以上に強く感じるようになった。

だからだろう。

塩炊きも、味噌づくりも、草木染めも、手間がかかる仕事をすることが苦じゃなくなった。

そして、いつか死んで分かれることになるであろうこの身体との儚い関係を、か弱い細胞達との一期一会を、今まで以上に大切にしようと心から思えるようになった。

「死が目の前にある」と気づいてから、生のありがたさが今までより分かった気がする。

そして「被ばく」を我がものとして受け止めて、そこから「生きよう」という意志を再認識したり、再生させたりしている人達と、「共に生きるための輪」をつなぎなおしていきたいと強く願っている。

その輪は、日本列島内にとどまらず、世界中の人達と育んでいくものだとも思っている。

・・・

世界に原発は何百基もある。

使用済み核燃料は、日本国内だけで約18000トンある。

核兵器も各国にどっさりある。

それらの産業に携わる労働者は数千万人~数億人単位で存在する。

「味噌汁がいいよ。」

「腸を詰まらせないほうがいいよ。」

そういうことを、実感を元に伝えたいし、味噌を作ったり、味噌汁を配ったり出来る状況も、作りたい。

味噌をどこかに貯めておいて、必要とする人に配れるようにしたい。

いつでも味噌汁の炊き出しができるようにしたい。

放射線、電磁波、紫外線、抗生物質、化学物質、様々な人工的な物質やエネルギーに過敏な人も増えている。

サナトリウムや保養所も、たくさん作っていけるだろう。

ウクライナ、ベラルーシには、国営の被ばく対策ための保養所がある。

1年中、子どもたちを受け入れる体制が出来ている。

日本で、そこまでいくのに時間はかかるだろう。

でも、一歩ずつ。

古民家再生と一緒にやっていけないだろうか。

とかなんとか。

・・・

そして今こそ、世界中の被ばく者とつながり合う時だという実感が大きい。

今は、そのための輪をつなぎなおす時。


その環の中で生きているという実感の元に、日本列島の中でやれることを、丁寧にじっくり、ひとつずつやっていく。

放射線の身体に与える影響、その研究を、噛み砕いたり、わかるように説明したり、していきたい。

味噌や漬物や野草や、一汁一菜や、よく噛むことや、よくからだを使うことなど、ダメージを受けた身体のちからを取り戻す生活の知恵も身に付けていきたい。

そして、原発や巨大産業に便り過ぎなライフスタイルを、手仕事、地域産業、自分たちで文化を作っていくようなライフスタイルにシフトさせていく道をつくっていきたい。

ウラン、セシウム、プルトニウム、強烈な鉱物粒子のインパクトを受けて「自分はどう生きるか」を問われている気がする。

答えはまだない。

問いは続く。

僕たちの時代が受け取った問いを、出し合って、聞きあって、受け止め合う時間をじっくり取っていきたい。

2018年9月1日土曜日

名もなき醸す船旅

ある時、夢を見た。

その夢は消える事なく、僕の中に今も息づいている。

夢の中で、僕たちは船に乗っていた。

その船には、たくさんの被ばく者が乗っていた。

マーシャル諸島、ビキニ環礁、ポリネシア、ミクロネシア、セミパラチンスク、日本での核爆発を体験した人たち。

オーストラリア、カナダ、ナミビア、ニジェール、カザフスタン、アメリカ、インドでのウラン採掘に従事した人たちや、その近隣に住んでいた人たち。

ウラン燃料の製造、運搬、加工に関わっていた人たち。

原子炉、再処理工場の運転に関わっていた人たち。

そしてその子どもたち。

放射能による被害は彼らの体だけでなく、心にも及ぶ。

プロパガンダ、言論統制、差別、孤立、バッシング。

彼ら一人ひとりの持つ小さな声がかき消えてしまう前に、
それらひとつひとつを聞き取るために、
一つの場所では足りなかったので、船で世界を回ることになった


世界中の港を回って、マーシャル諸島、ビキニ環礁、ポリネシア、ミクロネシア、セミパラチンスク、日本、オーストラリア、カナダ、ナミビア、ニジェール、カザフスタン、アメリカ、インドから、人びとを船に招いた。

船の中で、僕たちはお互いの話を聞き続けた。

大きな輪を作って、毎日毎日、一人ひとりの気が済むまで、ゆっくり話を聞き続けた。

一つひとつの話を丁寧に聞いて、ときには書き取って、記録に残した。

その記録は、船に同乗する仲間の手によって、ときには印刷物やインターネット上の記事になって世界各地の人びとに届けられた。

彼らの声を受け取った人達の中から、心を大きく動かし、被ばくをなくすための活動や、被ばく者を救うための活動の輪に加わる人が現れた。

それらの活動は海を越え、国境を越え、どんどんつながりあいながら大きな輪となり、
時の政治にも影響を及ぼしていった。

そして各地の港から、船に乗り込む者も多くいた。

彼ら、船に乗り込んだ料理人や治療家たちは、様々な方法で被ばく者たちを癒やした。

鍼灸、漢方、アーユルヴェーダ、マッサージ、温熱療法、快療法、食養生。

そして船の上では毎日、大きな鍋で毎日みそ汁が作られ、ふるまわれ続けた。

船中の一室では糀が仕込まれ、大広間では味噌が仕込まれていた。

そして、船で作られた味噌や持ち寄られた味噌は、惜しみなく振る舞われ、配られた。

船に乗ることの出来ない世界各地の被ばく者の元にも、それらの味噌をはじめ、梅干しやドクダミや各種の野草などが持ち寄られ、ふるまわれ、配られた。

「世界のすべての場所から被ばくによる苦しみがなくなる日」を目指す船は、乗組員を入れ替えながら世界をめぐり続けた。

そして、世界中のすべての核兵器が解体され、全てのウラン鉱山が閉鎖される頃、世界中の被ばく者たちは、それぞれの孤立した状況を乗り越え、つながりあい、助け合い、立場や国境や文化の違いを越えて生きる道を見出していた。

そして、世界中の全ての場所で、もう二度と、被ばくによる苦しみを産み出すことのないようにと、深く誓い合いながら、船は帰路についた。


2018年8月11日土曜日

産褥期間:産後の養生と面会について

前回の記事に続いて、「産後の養生と面会について」書かせていただきます。

妊娠期間中にずっと私達を支えてくださっていたある方が、お産を登山に例えておられました。

十月十日かけて、ゆっくり山を登るようにお産の時を迎えるための心身と環境を作り、お産の後は、同じくらいの期間をかけて、ゆっくり降りていく事が大切ということを教えてくださいました。

その時々の体と心の変化につながりながら、歩いていく。

お産を迎えるまでの時期の中でも、ホルモンバランスの変化、感情の変化、身体の変化、環境の変化が起こりますが、産後も同様であるし、むしろ下りのほうが負担が大きいとも言われているようです。

産褥期間という言葉があります。

お産の後、ホルモンバランスが日々、刻々と、ジェットコースターのように行ったり来たりを繰り返し、子宮の大きさが急速に、何百分の一にまで収縮していき、血液の流れ方、栄養の送り方が、お産を境に一気に変化していく。

産後の期間中、昔は、新生児の祖母にあたるお産経験のある女性が、産後の女性の養生の為に食事を作り、炊事や洗濯や掃除のような水仕事を行い、そしてもう一つ、心身のデリケートな時期に母子が籠もれるように、家を守っていたと言います。

産後少なくとも一ヶ月以内に訪ねてきた面会者には、母子に会わせる事なく、なおかつ相手に不快な思いをさせることのないようにもてなしていたそうです。

子守り=籠もり。

面会者が一人あると、新生児に行くはずの栄養が10グラム奪われると言います。

産後の女性が気を使うベクトルは、自身の心身や、新生児にむくべきで、来訪者に気を使ったり、相手のペースに合わせて対話をすること自体が、潜在意識下で大きなストレスになっているといいます。

また、産前と産後では体内の栄養、血液、リンパなどの循環システムや内臓の位置や大きさなども大きく変化する時期で、エネルギーを内に内に向けることが大切な時期。

目を使うことで、意識は外に向きやすくなるし、それによってストレスを受けることも少なくありません。

そして実際、目を使うということは血を使うということ。

体内の血液の多くが頭部に運ばれ、その中の最も綺麗な血液が目で消費されます。

そして目を使うことによって求められる微細な筋肉の弛緩収縮はそのまま心身の疲労に直結します。

ということで昔は、産後の女性は1ヶ月は光の当たらない寝床に居続け、トイレも食事もそこで済ませていたそうです。

実際、栄里もPCやスマホ、携帯を見るという行為は、少なくとも産後1ヶ月は控えるつもりでいます。(この間はメッセージ、コメント、メール、電話への応答は出来ませんので、急ぎの連絡は僕あてにお願いします。)


今の時代は、「そうも言っていられない」という事で、産後の女性の社会復帰を早めに早めに促すという空気があるそうですが、それは、江戸時代に23日間あった正月休みがほぼゼロに近くなっていることなどと同様で、「今の時代はそうなんだから仕方がない」と言っていいかどうかは微妙なところですし、「今の社会はそうなんだから、そうすべき」というよりは、これからの社会のありかたを、我が身のあり方をもって問うていきたいと思っています。

母体にかかるストレスはそのまま、母乳の質に影響すると言います。

非常に敏感な時期にある産後の女性の周辺では、パソコン仕事やメール、電話のヴァイブレーションも影響するといいます。

なので僕は、1時間ほど部屋を出てpcを触ったり電話をすることを、うまくいって1日
2回〜3回、場合によっては1回、という状況で仕事をしています。

産後の女性も、新生児も、五感の中の特に音に敏感。
音の大きさ、勢い、リズム。
実際、pcを激しく叩く音を、近くで聞かせたいとは思えないし、意識を外に向けた状態で、母子の側にいるのも気が進みません。

本当なら、食事作り、心身のケア(話をゆっくり聞いたり、血栓を防いだり循環を促すマッサージをしたり)、子供の世話をしたり、洗濯や掃除をしたり、妻に来る連絡を代わりに受けたり、こちらからの連絡を担ったりすることと、仕事や社会活動をすることは、分担出来ていた時代があったのだと思います。

でも今までの社会の中では(とりわけ高度経済成長時代以降は)そうもいかない事情が多々あったのだと思います。

そして今は、そのような時代から新しいライフスタイル、新しい働き方、新しい暮らしと仕事のバランスを作っていく、変わり目の時だと感じています。

今までは「当たり前」だったあり方を、改めて見直し「自分たち自身が変化になる」という意味でも、今は自己犠牲にならない範囲で、自分自身は祖母的ポジションと旦那的ポジションを兼任したほうがいいと思っているし、そうしたいと思っています。

それは大変なことかもしれませんが、変化の時は、「今まで通りでOK」な時には使わない筋力のようなものを使う必要も出てくるのかもしれません。

カーブを曲がるときに求められる踏ん張りとか、ブレーキをかける時に必要な腹筋とか、そういう力を使いながら(そういう力をつけながら)、これからの時代の家族のあり方についてのイメージを実体験の中から育てていけたらと思ってもいます。

世界の中で、母と子が幸せでゆったりと過ごせるようにすること。
(すべての人間が誰かの子という意味で、全員ということなのですが)

その延長線上に、仕事や活動があるのだと、改めて思い直しています。
(反省もこめて)

日々料理したものが、母の栄養になり、その栄養が、新生児の栄養になります。

たとえば産前に乳製品を摂ってきている量によって、母乳の出方は変わるといいます。

現在市場に出ている牛乳のほとんどは、母牛が必要以上(生命活動的な必要性以上)に母乳を出すようにホルモンバランスを操作する薬品が入っている為、女性がこのような薬品の入った牛乳を飲み続けていると、産後に母乳が出すぎる状況になってしまうことがあると言います。

そして新生児は、「一度にどれくらいの量の乳を飲んだらいいのか」の判断がつかないため、母乳がたくさん出るからと言って飲ませすぎてしまうと、胃腸が膨らみすぎてしまったり、腸の蠕動がうまくいかないことがあったりします。

また、出過ぎる乳を搾乳してしまうと、母体は「もっと乳を作っていいんだな」と判断してしまうため、出過ぎる事が続きます。

乳は血から作られますので、場合によっては「血が減るほどに乳が出る」という形で貧血傾向になったりもします。

産後のホルモンバランスの急変化による感情のジェットコースターとあいまって、母と子が母乳をどれくらい供給して、どれくらい飲むかというやりとりのバランスを取っていく、そんな繊細なやりとりと、調整が、産後に続くことになります。

造血を助けるものを作って食べたり、子供のうんちの質感を見て作るものの質や量を変えたり、非常に繊細で丁寧なやりとりが大事だと感じます。

いい感じの量の乳が出て、貧血も収まり、いい感じの量の乳を飲んでいる、というバランスを作るのに、2週間以上かかるといいます。

そしてこの間に、300倍以上の大きさにまでなっていた子宮が一気に収縮していきます。

子宮が大きくなっていく妊娠期間の間に作られた、食べたものをどこにどのように送るかという連携が、産後に大きく変化していく。

この変化にも数週間を要します。

おなかの中から、いちどきに、2000グラム以上の生命体が外に出るわけですから、どのような方法でお産をしたとしても、母子は、その後、体外的な連絡やコミュニケーションは一旦ストップして、それぞれの心身の新たなバランスづくりに集中したほうがいいと言います。

ということで、、、

冨田家では、栄里と照晃が助産婦さんなどに産後ケアを受けるなどの「母子の養生」以外の面会は、基本的には産後一ヶ月以降からにさせていただこうと思っています。

その後も、どれくらいのペースで地域や社会と変わっていくか、連絡やコミュニケーションを始めていくかについては、そのつど、母子の「いまここ」と繋がりながら、丁寧にやりとりしていきたいと思います。

回復については「早いほうがいい」とも思いません。

急ぐことで見落としてしまうものもあると思うからです。

ゆっくりでも、ひとつひとつ、その時々に見える景色につながれること、味わえること、を大切にしていきたいと思います。


お世話になっている看護婦さんから
「今の時代は、祖母が産後の世話をするという状況を作れる人は少ない。
なので、これは半分冗談で言っているのですが、旦那が吹き込んだ「お産の報告と挨拶」を入れたレコーダーを再生できるように玄関先に置いておいてください。と言っています。」
という話を聞きました。


先日書かせて頂いたブログは、そのような意味合いも込めて書かせて頂きました。

もっと簡単な内容の報告を考えてもいたのですが、妻の栄里から「自分のお産とちゃんと向き合って、消化していくためにも、どんなお産だったのかも知らせておきたい」ということで、苦心しながら書きました。

書いた上で、戸惑いもありました。

産後は目を使うことも負担になるので、PCの画面は見せませんし、
頂いたコメントの内容を報告するのも、一ヶ月以上後になると思います。

書いたからには栄里もリアクションが気になるのではなかろうか、とか、
実際僕自身が、リアクションに振り回されてしまうのではないか、とか。
(実際、書いた後、僕の気持ちはかなり揺れました)

栄里にとっては、産後検診(とりわけ内診)を受ける前にこの報告を出来たことで、自分の心身に一歩踏み込んで繋がれたそうで、そう言ってくれたことが、救いになっています。

何はともあれ、今の時代、産褥期間をどのようなものとして捉えるかということや、面会や連絡、渉外活動についても、ある程度明確に「自分たちの考えや現状」をお伝えしておいたほうがいいだろうという考えで、この記事を含めて、2本の記事を書かせて頂きました。

下山した後の平野で、みなさんとお会いしたいという思いでいっぱいであることに変わりはありません。

家族ともどもみなさんとお会いできることを楽しみにしています。

ここまで読んでいただいたみなさん、どうもありがとうございます。

冨田貴史・栄里

2018年8月9日木曜日

Thanks for your wishes . Our son was born.

On August 3rd, our son was born.

A boy with a weight of 2704 grams, is a very healthy baby with the energetic summer.

He was delivered after an emergency caesarean section.

But mother is recovering now.

Our child's name is Teruaki.

Named after our mothers.

Takafumi's mother is Teruko.

The meaning of Teruko is light that illuminates a child.

Eri's mother is Akiko.

The meaning of Akiko is the child of sun light.

The name is our reminder to give thanks to our ancestors and parents for their protection and guidance.

We send our gratitude for your support .

And we are looking forward to seeing you as a family.

Thank you very much.

Takafumi Tomita , Eri , Teruaki









ご報告とご挨拶:心からの感謝を込めて

2017年11月に妊娠がわかり、日本で産むか、アメリカで産むかを考え、その後「お産はどこで産むか、いかに産むかということではなく、妊娠期間の十月十日をどう過ごすかが大切」という言葉に出会い、日々の体作りや、夫婦の関係性づくりに心を向けながら過ごしてきました。

そして私達は、愛知県岡崎にある自然出産を薦める吉村医院と、その場所とつながる産前産後の家族を支えるコミュニティの存在に出会い、助けられ、支えられ、まさに自然な流れと導きを感じながら、7月からここ岡崎で暮らしています。

臨月に入ってからも、日々数時間の散歩や薪割り、古家と呼ばれる吉村医院に隣接する古民家での古典的労働と妊婦同志の触れ合いの時間を過ごしながら、お産の準備を進めてきました。

産前の検診の中で、子宮口に胎盤が近い「低置胎盤」であるということがわかったのは、5月頃でした。

胎盤は、胎児にとって血液を通じて栄養を受け取る土台のような存在で、この胎盤が子宮から先に体外に排出されてしまうと、大量の出血と共に、子には血液がいかなくなってしまい、母子ともに生命の危機にさらされてしまいます。

そのため、一般的には低置胎盤である場合のお産は、全身麻酔か硬膜外麻酔を使って、輸血が出来る体制を整えた上での帝王切開になることがほとんどだと言います。

そのことが分かって、私達は、輸血や麻酔の設備もなく、帝王切開も行っていない吉村医院では出産が出来ないという事実を受け止めなければいけませんでした。

そして5月からは、吉村医院と提携している総合病院であるトヨタ記念病院に検診に通うことになりました。

そこからの私達の生活は、大阪からトヨタ記念病院に定期的に検診に通いながら、古屋や吉村医院にも通って体作りをする、というものに変わりました。

トヨタ記念病院のドクターや看護婦さん、助産師さんは自然出産を望む私達の意向をなるべく聞こうとしてくれました。

点滴や化学薬品をなるべく体内に入れたくないということ、産後入院になった際の食事の事など、出来る限りの理解と協力を向けようとしてくださいました。

その上で、産気づいて子宮口が開いてくるだけでも大量出血になるかもしれないこと、胎児よりも胎盤が先に子宮から出てきたり、胎盤が剥離した際にはそれ以上の出血が予測されることを丁寧に伝えてくださり、私達が同意をした上で「何かあったら切らせてもらうよ」という言葉と共に、彼ら、彼女らは、最後の最後まで、栄里の「経膣分娩に挑みたい」という願いを受け止め、支え続けてくださいました。

臨月になって岡崎で暮らすようになってからは、ほぼ毎日のように吉村医院と古屋に通い、検診の際にはトヨタ記念病院に通うという生活の中で、産前の準備期間や産後の回復期間に吉村医院に滞在してもらって構わないというありがたい提案をいただき、出産予定日を過ぎた7月31日からは、吉村医院に滞在しながら出産の準備を進めていました。

そして8月3日未明、栄里の尿に少量の血が混ざり、子宮口の開きと子宮収縮が進んでいることがわかりました。

そこから深夜の診察が始まり、子宮が収縮するたびに胎児にストレスがかかり始めている事がわかり、念の為トヨタ記念病院に移動しておこうという話になった直後に、トイレでまとまった量の出血があり、そのまま救急車でトヨタ記念病院に搬送となりました。

救急車には田中院長も同乗してくださり、トヨタ記念病院の担当ドクターと素早い引き継ぎをしてくださいました。

そこからは一気に、僕が同室で立ち会う事の出来ない中で、検査、点滴の確保、麻酔の準備が始まりました。

そして、出産予定日が過ぎて羊水が減ってきている事、このままでは大量出血が間違いないであろうこと、子宮収縮のたびに胎児の心音が乱れていること、といった説明と共に、緊急帝王切開を勧められ、栄里と僕は、同意しました。

その時、安産を祈りながら産科の廊下に出たところに、朝日が差してきました。 




その時、命を照らす日の光によって私達の命の営みが守られている事を感じました。

そして、照らす日の光と同じように、私達の親や先祖たちが、私達の命の営みを見守ってくれているという事を、改めて実感しました。

貴史の母は、子を照らす照子。

栄里の母は、日の光の晃子。

私たちの母が私達を産んでくださり、ここまで育ててくださり、今もかわらず見守ってくださっているお陰様で、 この子を授かったということを全身で感じ、感謝が溢れてきました。

そして2018年8月3日7時24分、栄里と貴史の間に、第一子が誕生しました。

2704グラムの男子である彼は、奇跡的に、無事に胎内から出てきてくれました。

そして大量出血を伴った栄里は、2本の点滴と背中から打たれた麻酔と、傷口と尿道からの管などに繋がれた状態で、手術室から出てきました。

母子共に、無事に、出産を終えた事を実感した瞬間でした。

栄里は昨日までうまく立ち上がることも出来ない状態でしたが、母乳の出もよく、食欲も旺盛です。

息子も、母乳をよく飲み、よく眠り、うんちもおしっこもしっかりしています。


・・・

息子には、無事に産まれてきた事の奇跡を支えてくれている私達の母への感謝を込めて、照子と晃子のそれぞれの名前から一字ずつをいただき、 照晃と名付けさせていただきました。 

改めて、これから家族三人、それぞれの親やご先祖たちが命をつなぎ、見守ってくださっているお陰様で生きているということを忘れないように、 一日一日を大切に暮らしていきていくという誓いを新たにさせていただきます。


・・・


現在はお産をさせていただいたトヨタ記念病院で静養しています。

まだまだ貧血もありますし、これからすくなくても産後一ヶ月は、栄里がじゅうぶんに子宮や骨盤や血液や精神や心や感情をゆっくり安めて、養生していくことに専念できるよう、なるべく静かに、家族で籠もらせていただこうと思っています。

そして僕の生活はこれから当面、赤子の尻拭き、おしめ洗い、食事づくりといった家事、母子の心のケアが中心になり、母子の元を離れずに出来るデスクワーク、執筆、出版や発送といった仕事・活動を、家事の合間に行っていくことになると思います。

そしてその後、百日後くらいからをめどにしつつも、あくまでも母子にとってそのときどきの心身状態につながりながら、無理のないペースで、ゆっくりと、地域、社会との関わりを始めていけるように整えていけたらと思っています。

私達の営みを見守り、支えて下さっている皆さんに、心から感謝しています。

そして、親子三人で元気にお会いできる日を楽しみにしています。

どうもありがとうございます。

冨田貴史・栄里・照晃




















2018年7月16日月曜日

皐月の満月の畑

6月28日、皐月の満月。

皐月の「皐」は田んぼの神様という意味。

皐月は、人も神様も微生物たちも、田んぼや畑を行ったり来たりしている。

私たちみそ部の定例活動日は新月前日ですが、今月は新月満月問わず、活動が盛んです。

『ハッピーヒル』というお米の種を入れた泥団子を、市川ジャンさんが作った。

これをこの春、畑の水路に蒔いた。

ちなみにこの水路は元々、数十年前に入れたのであろう塩ビ管の影響で、土が酸欠状態になっていて、空気や水の流れがかなり滞っていた。

土壌微生物達も「死にはしないけど、暮らしにくい」と思っていたっぽい。

ということで、昨年の春に、この塩ビ管を抜き取って、溝を掘って、ガスと水を流すための世話を続けてきた。

そして「この水路に稲を植えちゃおう」となった。

植えて、収穫して糀を付けられたらいいね、と話していた。

昨年はここに、苗代で育てた稲を手植えして、今年は泥団子をまいた。

そして、この泥団子が絶好調。




ジャンさんも「もう苗床作らないで、毎年泥団子だけ作ろうかと思うくらいだ」と言うくらいに、絶好調。

そしてこれらを株分けして、水路に、約40センチごとに植え替えた。
(約40センチというか、鋸鎌一本分。長さは畑道具で測ると便利です。)






そして、パクチーの種取り。

種を付けて枯れていく姿の美しさにしびれる。







そして、この畑のボスとも言える栴檀(せんだん)の巨木の根本に蒔いた人参が、花を咲かせていた。

今年は、この人参たちの根っこを収穫することはせず、種を採ることになった。

種を蒔き、種を取り、ふたたび種を蒔き、みのり、そこでようやく収穫する。

一年草を、二年かけて育てて食べる。

もちろん、食べられるかどうかは、来年にならないとわかりませんが。






人参の種は、ふさふさ、とげとげしている。

動物たちが、その毛に種を付けて、知らないうちに運んでいる。

植物たちの意志によって動物たちが働かされる、という関係。

食物連鎖は上下関係でなく、上下左右スパイラルに。

植物の上に動物がいるという実感は、ここにいると生まれにくい。

様々な角度からそれぞれの意志がビームのように飛び交い、織物のように巡っている感じがします。





夏至前に蒔いた黒大豆は、大きさも様々に育っています。




時折、なんでこんなにでかいの?っていうのもいます。
奔放に育てると、個性の違いがはっきり出ますね。





そして、カラフルなホピコーン(アメリカ先住民の栽培しているコーン)が、元気に根付き、育っています。





コーンはタフですね。
ネイティブアメリカンの世界には「ポジティブな批判は、コーンに吹く風のようなもの」という言葉があるそうです。
これは、風が吹けば吹くほどに、コーンは大地に深く根ざしていくという意味だそう。






そして、上述の水路に植えた真菰(まこも)も順調に育っております。
地下のことは目に見えないですが、根もだいぶ広がっている様子です。



皐月をすぎ、間もなく旧暦の上半期が折り返す。
太陽の力も、夏至をすぎて折返し。
育つ時期から、実る時期へ、緩やかにシフトチェンジ。

地上で、地下で、色々な命がせめぎ合う夏ですね。

2018年7月2日月曜日

庭の再生、手仕事の再生


今年に入ってから、伊丹にある15年間空き家になっていた場所の再生をしている。


庭全体を「大地の再生」によって水や風の流れを通しつつ、6月は玄関サイドの整備に取り掛かり始めた。

よくある玄関周りの松って、ちょっと窮屈そうよね。

大地の再生やるようになってから、地中の根っこが透けて見えるような感じになってきた。

地表を鏡のようにして、上に出ている部分と下に隠れている部分が対になっている。

松の葉っぱが枯れかけていたり、枝に葉が付かなくなっている時、地中でも根が詰まっていたり、呼吸できなくなっていたりしている。

アスファルトやコンクリート、踏み石などによって根っこが窮屈になっている感じ。

こういう時、「側溝」を掘ったり「点穴」を掘ったりする。

今回は、点穴を掘った。





















ここからガスが抜ける。

土が呼吸する。

土壌微生物が呼吸する。

根っこに空気と栄養がいくようになることを期待して、穴を掘る。

そしてそこに、隙間ができるように炭を入れる。

炭は微生物の住処にもなる。


踏み石の周りも、土がカピカピになっていて、呼吸ができていない感じだったので、細い側溝を掘って、炭と枝を入れる。




そして踏み石の周辺を掘っていたら、でっかいコンクリートの板がたくさん出てきた。

よかれと思って、コンクリートをどっさり埋めていた様子。

これで松の根が呼吸できなくなっていたということがわかった。



ということで、このコンクリートをハンマーで割って、剥がして、その上に炭や葉っぱや枝を敷いて、呼吸のできる土にした。




















これで様子を見てみよう。

枯れかけている松の葉が再生してくるかどうか。

葉がつかなくなった枝に葉がつくようになるかどうか。

じっくりゆっくり観察しよう。


この日は、市川ジャンさんと二人で庭で作業とおしゃべり。

そして女子たちは家の中で染め。

この家の持ち主(住んでいた老夫妻の娘)は元々藍染めをされていた、ということ。




でも、もうずいぶん前に辞めていたそう。

でも僕たちがめっちゃ興味をもって「今度一緒にやりましょうよー」と言ったことをきっかけに、この日、一緒に染めをすることに。

糸を使った絞りは本当に繊細で丁寧。

この技術、こうやって直接受け継いでもらえるのは本当にありがたいこと。

家の中では手仕事の再生が静かに起こっていた。








そして、着なくなった服が綺麗に染め上げられて再生されていく。








あるものを大切に。

あって当たり前から、ありがたしのマインドへ。

出会いの機会、創造の機会を、意識的に創っていきたい。

ひとつひとつ、じっくり丁寧に。

















2018年6月12日火曜日

踊りと染め




この下駄は、岐阜の郡上の「郡上木履(ぐじょうもくり)」の諸橋君が作ったもの。

彼とは愛知県春日井で行われた茜染めワークショップをきっかけに出会った。

その後、この3年間、郡上踊りという伝統行事に合わせて、徹夜で踊っても大丈夫な下駄である「踊り下駄」の鼻緒を染めさせていただいている。

この鼻緒は、昨年染めたもの。



郡上木履(ぐじょうもくり)http://gujomokuri.com
郡上踊りで使われる下駄の企画・製造・販売。 「メイドイン郡上」にこだわり、郡上の山で育ったヒノキを活用し、 木の削り出しから鼻緒すげまで、一貫して郡上内で行う。 主に、「踊り下駄」と呼ばれる踊りにも使える丈夫な下駄を制作。 郡上の下駄文化を守り、発信する郡上発の下駄ブランド。

伝統的な仕事は、連携が大事だとしみじみ思う。

木こりがいて、鼻緒を染める人がいて、下駄を作る人がいて、履く人がいる。
そのひとりひとりが、直接つながってやりとりできている関係。

その輪の中に、伝統が残る。

実際、下駄の鼻緒のための布の染めの依頼内容は、染める身にとって、とても理にかなったもの。

長さ:約160センチ × 幅:約35センチ〜37センチ を10本染める。

幅は、ちょうど一尺。

一尺は肘から手首までの尺骨の長さ。

日本では、染や織りの作業がしやすいよう、この、いわゆる腕の長さに合わせた幅の布(小幅の布)が使われることがほとんどだった。

着物も作務衣も股引も浴衣も、そして下駄の鼻緒もこの小幅でつくられる。

そして長さも完璧。

この長さの布を10本とると、ちょうど一反になる。

一反は、当時の女性の着物を一枚作るための面積をもとにした単位である。

僕は生地を一反単位で仕入れる。

この生地は、10枚に折られて工房に届く。

これを折られたまま切るだけで、諸橋君からのオーダー通りの生地が出来上がる。

連携がとってもスムーズ。

生地を織る人、染める人、鼻緒にする人が、同じ伝統の中にいることで、お互いの仕事を楽にする。






このサイズの布は、たらいにぴったり収まる。

最近は、一日の仕事の半分を執筆、半分を染めに当てている。

手を動かすこと、同じ作業を反復し続けることが、頭と心と体のバランスを整えてくれる気もしている。

1回1時間くらいの、すすぎ、媒染、すすぎ、染め、すすぎ、の工程を5回〜8回繰り返して、一枚の布が仕上がる。

これを10本。

踊り続ける人たちのために、染め続ける日々。







自然出産を勧める吉村医院では、産前に一日300回のスクワットを勧めている。

一日5時間位染めていると、重たいたらいを運んだり、布を上げ下げするうちに、スクワットはその数を越える気がする。

「世の中に踊らされるな。自分の踊りを踊れ。」

と言っていた人が何人かいたことを思い出した。

思い出しながら、踊るように染めている。