2016年7月13日水曜日

参院選をみつめなおす

今回の選挙の事を振り返ったり、文章を書いてみて、、
どうもしっくり来ないのは、自分が一番強く感じてる事を書いていないからだって事に気づきました。
最も反省すべきは自分自身の動き。
今回の参院選について、反省すべきところ、見なおすべきところ、ごまんとある。
そこは不言実行。
これからの行動で克服していきたいと思います。
そして今日は、自分自身を仕切りなおすために、この15年を少し振り返ってみます。
2001年のNYテロが起きた時、ソニー・ミュージックにいた自分はすぐに「なんという茶番」という事を感じました。
これが社会で起きている事に感性を働かせた最初の体験でした。
音楽業界で、プロモーションという名の仕掛けと扇動について日々頭を使い、こちらからの仕掛けに社会がどう反応するかを観察し続ける日々の中で「何がやらせで、何が自然発生的な出来事なのか」の見分けがある程度つくようになってきたからか、あの出来事の背後にシナリオがあるのではないかということを直感しました。
色々調べていくと、
アメリカ政府がその後FBI、CIA、警察官僚の権限を強め、国民の自由の範囲をどんどん狭めていくような法案や条例を可決させていくような事態が起こっていることを目の当たりにしました。
戦争を起こす時、政府は「仮想敵」を作る事で国民の意識を「好戦的」な方向に先導し、国民の一部は、拡大された貧富の差を憂い、怒りを強め、貧困層の一部が自主的に戦争を支持し、安定した賃金を得られるとうたわれた軍隊に加入していく、というシナリオ。
そして、この流れは数年遅れで必ず日本にやってくるという確信。
こういった状況を知る過程で2003年「第九条の会なごや」の事務局を務める当時70代のおじいさん、おばあさんと出会いました。
名前を川合さんと言います。
川合さん夫妻は、僕の家までわざわざ歩いてやってきてどっさりと資料を置いていってくれました。
「憲法9条を受け継いでほしいと願う 一老人より」
という言葉と共に。
僕はこの言葉と、
わざわざうちまで来てくれたというその思いにしびれて、、、
即決で「第九条の会なごや」に入りました。
入ってみると、この会のメンバーははほとんどが70代以上。
お寺でお茶を飲みながら、憲法についての勉強会の手刷りのチラシを封筒に入れる作業を一緒にしたりしながら、戦争体験を聞いたり「今は戦前のようだ」というような話を聞いて過ごすのが日課となりました。
彼らの「若い人たちともっと繋がりたい」という切実な声を聞いた
僕は、高校生を読んでおじい、おばあと語らう会を開いたり、会主催のイベントや「戦争展」という名の手作りの展示会に知り合いのミュージシャンを呼んだりして、なんとか世代と世代を繋げないかと苦心してきましたが、同世代の友人からは「話が難しい」とか「それも大事だけど生活や仕事のほうが大事」とか、聞いていて辛くなるような言葉ばかりを聞かされて、当時20代だった僕は「もういいよ。お前らにはもう語らない。」と心を閉ざしてしまいました。
何が辛いって、、こんなに切実に平和を願っている人達がいるのに、その言葉が古いとか、ダサいとか、たったそれだけの理由を付けて否定されるのが、本当に辛かった。
そんな言葉を間に入って聞いてるのが辛かったし、自分自身の力量のなさ、経験のなさによって、そんな状況をどうにも出来ないことも本当に悔しかった。
自分が大事だと思うものを否定されることが、とてもつらかった。
「もういい!」と本当にグレて、同世代に伝えることを諦めようと思った頃「アメリカから、イラク戦争にはっきり反対の意思表示をして、大統領予備選にまで出たデニス・クシニッチという議員を呼ぶことになった」という話を聞いた。
戦争体験をしている人達以外の繋がりが欲しかった僕は、彼を紹介する映像を作り、彼に会いにワシントンに行った。
この投稿の最後に付した映像は、その時に作ったものの一部分。
2005年9月、第二期小泉政権が樹立した時、僕はワシントンの議員会館を回っていた。
ワシントンで知り合った人達と人生初のロビイング。
「日本では今、憲法を変えて戦争を出来る国にしようとしている政党が政権を取っている。国家を越えて平和への連帯を強めていかないといけないと思って日本からやってきた。」
なんて熱い事を語ったりした。
そして、憲法9条を英語に翻訳したプリントを、街中で配って意見をもらったりした。
全く無視する人もいたけど、
「これはやばい詩だ」
とか
「こんないい憲法持ってるのになんで活かさないんだ」
とか
「アメリカでも広めるよ!」
とか
勇気づけられるコメントも多くもらった。
そして日本に帰ってきて、議員会館を訪ねてみてびっくりした。
「え?なんでスーツ着た人しかいないの?」
会館の外ではプラカードを持ったラフな服装な人達がちらほらいたりするけど、なぜか会館内には、企業ロビイストか官僚か国会関係者とおぼしき人しかほとんど見当たらない状況。
ワシントンの下院上院両議員会館の中には、もっといろんな人種、いろんな服装の人達が出入りしていたし、その周辺のカフェでも、バーでも、多様な人達が政治を語っていた。
それが国会周辺の一般的な風景だと思ったんだけど、、
永田町はそうじゃなかった。
物々しい武装車と、こちらをジロジロ睨むように監視する警察官と警備員。難しい顔をしたスーツ姿の男達。
恐怖と緊張を煽る空気、男中心の空気、同じ服装を強いる空気。
日本の政治の偏りは、政治家たちが日々目にする風景、日々目にする人種が偏っている事に原因があるんだと感じた。
この日本列島には、永田町ではあまり見かけないような多様な価値観の、多様なライフスタイルを営む人達が生きている。
そのことを政治家が知らなければ国会での話し合いは偏ってしまうだろうと思って、それから何度も院内集会にも参加したし、主催者のひとりとしてそういった場を開いたりもした。
そこで感じたのは、市民運動というものが、政治の偏りと同様に偏っているということ。
政治家や官僚に対する怒りをそのままぶつける、その言葉と波動の強さ、重さが痛かった。
そして、その強さ、重さをいつしか自分もまとってしまっていることにも気付いた。
物事が偏って見えるのは、自分自身が偏っていたからだろう、
僕自身の目が偏見に満ちていたからだろう、と今ならわかる。
いつの間にか「タカは固い」「難しいことばかり言う」という事を影で言われているということを知った時には、もう後戻りできなくなっていた。
どうしてそんな自分になってしまったのか、自分でもわからないくらいに、、、落胆や絶望や怒りや悲しみや焦りや罪悪感に潰されそうになっていたし、、そんなごちゃごちゃの気持ちをさらにエスカレートさせるような、悲しい出来事や悲しい現実を知り続ける日々が続いた。
でも、向き合うことはやめられなかった。
やめられない理由は、たぶん、50歳以上年の離れた戦争体験者の思いとつながっていたから。
理屈抜きに、たぶんただそれだけが僕が活動をやめなかった理由。
・・・
自衛隊をイラクに派兵することをどうしてもやめてほしかった。
でも、その願いは叶わなかった。
そして、イラクで起こっていることを、イラク人から直接聞いた。
原発で使う核燃料を作る時に生まれる放射性物質「劣化ウラン」を1トン1ドルほどで買い取ったアメリカ政府は、この劣化ウランを弾頭につけた通称「劣化ウラン弾」をイラクの非武装の住民(大人も子どもも問わず)の頭上からばらまいた。
そして、小児白血病やがんが多発した。
イラクの医者達は、自身の被ばくを覚悟しながら、彼ら彼女らの治療を続けていた。
日本に50基以上ある原発を稼働させる為に大量に生み出される劣化ウラン。
僕はこの時、日本が憲法を変えなくても、自衛隊を派兵しなくても、すでに戦争を起こしているという事を実感した。
自分たちの暮らしが、戦争に加担し、戦争から抜け出せない中毒症状を促進させている。
僕はここから活動の方向性を変えて、日本の原発と自分自身の暮らしとを、足元から見つめなおして、今ある戦争から降りていく事を目指す実践を試行錯誤し始めた。
・・・
憲法について語ること。
12年前に買った本を読み返して、fbにアップした。
その時、少し胸が騒いだ。
あの頃に浴びせられた言葉を思い出した。
ビクビクしていた自分を思い出したし、孤立した気持ちも、絶望や怒りも、思い出した。
自分の中にあった「諦める」という気持ち。
どうせわかってもらえない、という気持ち。
この気持ちを、もう一度見なおそうと思う。
相手を責めるのではなく、相手を責めたくなる気持ちの奥にある自分の感情を、もっと深く見つめなおそうと思う。
憲法についての勉強会、再開します。
まずは地元関西、大阪、兵庫、京都で。
そして荻窪で、札幌で、やることを決めました。
これから各地でやっていくので、各地で情報キャッチよろしくお願いします。
そして、メールマガジンをはじめます。
自分が出会った情報、浮かんだ考え、もっと発信していきます。
自分の中にあるものを、相手を疑わず、相手を敵と想定せず、もっと伝えていこうと思います。
メルマガについては、また詳しく書きます。
・・・
参院選が終わって、何を分析してもしっくり来なかった。
やっぱり見なおすべきは、常に自分。
変わっていきたいと思います。
過去を乗り越えていきたいと思います。
この15年間、たくさんの素敵な人達に出会えた。
たくさんの素敵な経験をさせてもらった。
今生きているのは、有り難い仲間のおかげ。
グレていた僕が、少しずつ立ち直ってこれたのも、
笑顔でいられる時間が増えてきたのも、
それもこれも、この間に出会った仲間のおかげです。
改めて、本当にありがとう。
以下は2005年に初めて作った映像の一部。
重い機材を一人で担いでイラク派兵についての映像を作っていた70代のおばあにシゴカれながら作った映像。
彼ら彼女らの願いを受け継いでいきたいという思いを、新たに。