2016年10月19日水曜日

ノーベル賞ってなんだったっけか?ディランさんと考えてみる。


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するかもしれない的な話をjapan timesやnews weekで読んで、いろんなことを思った。
かもしれないというのは、、
未だに本人に連絡取れていないようで、受賞を拒否する可能性もあるみたいなので。
ノーベルは、今の資本家たちが成功させている巨大利権によるビジネスモデルの雛形を作った一人。
ダイナマイトを作り、軍事と公共事業(道路やダム建設など)という国家事業を代表する2つの産業界に広がる巨大利権を牛耳った。
民間人相手のビジネスではないから、国家予算を資金源にほぼ自動的にお金が流れてくる。
今でいえば、電線の利権、石油利権、インターネット網、鉄道網の利権など、政府と経済界の用意したいわゆる「一般的な」暮らし方を民間人たちに覚えさせて、皆がそのように生きるだけで自動的にお金が入ってくる仕組みを作った草分け。
ノーベル賞は、僕の認識では、、
誰かの発見や研究を、賞を与えて買い取る。またはノーベルネットワークに取り込む。または直接取り込まずとも「誰に賞を与えるか」で皆の思想や印象に影響を与える事を意図した賞。
ウランを使った放射線の研究をしていたエンリコ・フェルミやキューリー夫妻に賞を与え、研究所を与え、資金提供を続け、国家事業に取り込み、そこで生まれた利権を総取りする。
彼らの作ったノーベル・ウランカルテルもそのひとつ。
賞を与えるということは評価するということ。
芸術に対してひとりひとりが「好き」とか「嫌い」とかって評価することは、理解できる。
ノーベルさんたちが「ディラン好き」っていうのも、理解できる。
こいつを取り込みたいとか、こいつを取り込むことで、皆の思想をこう操作したい、という意図を持つことも理解できる。
でも、ノーベル賞は世界的な評価、という評価を無自覚に信じている空気とか、彼にノーベル賞を与えるのはどうだこうだ、と皆が騒ぎすぎる事にはちょっと違和感をおぼえる。
「ノーベル賞は特別な賞」と言い過ぎることで、一部の人達が与えた評価を絶対的なお墨付きにしてしまうことは危険。
そのさまは「政府が言っているんだからそうなんだろう」という事と対して違いがないように感じる。
誰かが言ったこと、誰かが下した評価を皆で信じる事で、
その信仰心が社会の利権構造を維持しているのだと思う。
トクホと書いてあるからOK
とか
なんとか認証マークがついてるからいいとか
政府が「直ちに影響がない」と言っているから安全とか、ね。
その原型の一つがノーベル賞。
そしてさらに気になったことは、「音楽なんか文学じゃねー!」みたいな批判があること。
それは批判が行き過ぎてるだろ。と思ったりした。
盲目な信仰心が生み出す対立構造。
隣人が隣人を差別する内戦、civil war。
音楽と音楽家に囲まれて仕事してきたから、芸人、芸術家、芸能人に対する差別、意味不明な上から目線、意味不明な下から目線、依存、攻撃、バッシングといったエネルギーについては敏感なのかもしれない。
「音楽家は政治なんか目指すんじゃねー!」
というどこかで聞いたセリフに似た匂いを感じる。
いいじゃん、ノーベルが音楽も文学って思ったんだから。
それは彼独自の評価にすぎない。
それに反対賛成というより、自分のセンスで何かを祝ったり、したらいいんじゃないかな。
違うと思うなら、あなたも◎◎賞とか作ったらいいんじゃない。
なんて思ったり。
そして、こうやって反応して日記を書いてしまう僕も踊らされてんなーなんて思ったり(笑)しつつ、今日も世界で起こる様々に一喜一憂しながら生きていくのでしょう。
長岡で、米山知事当選後の空気を味わいながら。
追記:今日のWS(昼:保養、養生、放射能対策/夜:NVC、ファシリテーション)主催のせいちゃんの家が選挙後の座間宮ガレイさんのツイキャス会場だったと知り、世界は狭いと思ってます。