2018年5月7日月曜日

「被ばく」がテーマとなると日記も長くなる(苦笑)

昨日は放射能についての本をひたすら読む日だった。


以下、引用。

原爆症認定集団訴訟は、2003年4月から始まりました。地方裁判所での原告連勝の中、2008年5月30日、大阪高等裁判所は入市被爆者を低線量内部被爆者であると認める判決を出しました。これに対して国・厚生労働省が上告を断念し、判決は確定しました。

大阪地裁、大阪高裁ともに、「低線量放射線による被曝の影響に関する指摘」を2冊の科学文献に求めています。

本書『死に至る虚構』と『放射線の衝撃』という本です。

裁判所は、これらの文献を「事実」であるとして引用しました。

日本政府は、自らも隠蔽していた「低線量放射線による内部被曝の危険性」を、事実として認めたのです。

引用以上。

『死に至る虚構』
著者:ジェイ・M・グールド/ベンジャミン・A・ゴルドマン 
共訳:肥田舜太郎/斎藤紀
発行:PKO法「雑則」を広める会)
より



内部被曝の影響がないという暗示は、どこから来たのか。

放射線の与える影響を調べるICRPは、放射線被ばくを「合理性」にもとづいて押さえると言っている。

合理性、、、経済的合理性、政治的合理性。

核兵器製造、原子力発電が実現できる範囲で、内部被曝を最低限に押さえるという考え方がそこにある。

アメリカ合衆国内の研究機関は、広島、長崎での原爆投下の影響が大きすぎるという報告を出せば「戦争責任」を問われ、なおかつその後の「核戦略」に足止めがかかる可能性があると見て、内部被曝の影響が小さいものであるとすることを決めた。

それ以来、放射線被ばく(とりわけ内部被曝)は人体に影響を及ぼす事はないとされてきた。

放射線防護学はそれ以来、純粋科学とはいえない、バイアスを帯びたものになっていった。

そして、純粋な科学では無いがために、各地で学者や研究者が調査を続けるたびに、ICRPの考え方、とりわけ提示される「安全値」に異を唱える団体が増えてくることになった。

ICRPが提示する「年間1msv」とされる安全基準値は「1万人が年間1msv被曝すると、その中の1人が放射線被ばくが原因で死ぬ可能性がある」というものだったが、ゴフマンという学者がこれにご不満を唱え「ICRPはリスクを40倍甘く見ている。実際は1万人が年間1msv被曝すると、その中の40人が放射線被ばくが原因で死ぬ可能性がある。」というデータを提示した。

その結果、ICRPは「1万人が年間1msv被曝すると、その中の5人が放射線被ばくが原因で死ぬ可能性がある」と修正をかけた。

前述の日本における裁判にも見て取れるように、各国政府による経済と政治に関する事情によって隠蔽されたり、バイアスがかかってきた「放射線被ばくの危険性」については、今のその認識が改められ続けているし、研究や実践の蓄積が共有されるということも続いている。



そして、そのような流れを支えているのは、政府でも組織でもなく、意志ある個人のつながりだということが大切なポイントだと思う。

・・・

善悪二元論という思想を土台に、放射線被ばくについて「放射線も悪者ではない」的な論が一部にはびこっている。

「彼らを嫌わないで」的な。

「どんな存在にも意味がある」と言う人もいる。

そりゃそうだ、とは思う。

と同時に、「では、マグマは悪者ではない、と言ってマグマに飛び込める?」と聞きたくなったりする。

僕らの身体を構成する細胞組織は、超エネルギーの高い電磁線を受け止めるキャパを持っていない。

すべての生命に存在意義があったとしても、住み分けはしたい。

抗生物質、化学物質、電磁波、抗ガン剤についてのスタンスと一緒だ。

僕はこれらの物質やエネルギーが、細胞組織に強いインパクトを与えて、活性酸素を産んでからだを疲れさせたり老化させたり、免疫力を低下させることを知っているし、それが体内で起きていると感じているから、「なるべく体内に取り込まない」という形で、住み分けをするようにしている。

取り込んだら、その影響を認識して、対処する。

梅干し、ドクダミ、味噌汁などを体内に取り込んで、酸化還元、抗酸化を助けたり、それらの物質を解毒、分解することを助けたりする。

気にしない人は気にしなければいい。

放射能の影響を気にして、研究したり実践することを、止める必要はないはず。

それをしたいのは、各国政府。

しかも、「過去の」各国政府。

彼らのスタンスも変わってきている。

過去の政府のかけたバイアスという夢から醒める時が来ているという感がある。

そして、「放射能を気にしない」人がなぜ、「放射能を気にしている人」 を気にするのか、には興味がある。

放射能が気にならない人が、人のやっていることの何をそんなに気にするのか。


死への恐れ。

絶望することへの恐れ。

途方もないと思える事実を受け入れることへの恐れ。

僕は被曝しているという自覚がある。

高線量と言われる地域を訪ねるたびに体調がすぐれないということが続いて、初めて、自分は被ばくしているんだということがわかった。

内側からじわじわ湧いてきた死への恐れは、今も意識の根底から消えることはない。

そして今も、どんなに養生しても、明日死んでもおかしくない、とどこかで思っている。

恐れも、絶望も、「これは途方もないな」という気持ちも、拭えはしない。

でも、その感覚を受け入れてから、「そう強く感じるってことは、よっぽど生きたいって事だな」という、「生きたい」という思いを、それまで以上に強く感じるようになった。

だからだろう。
塩炊きも、味噌づくりも、草木染めも、、
手間がかかる仕事をすることが苦じゃなくなったし、
いつか死ぬであろう身体とのはかない関係を、か弱い分子達を、細胞達との一期一会を、
今まで以上に大切にしようと心から思える。

死が目の前にあると気づいてから、生の有り難さが今までより分かった気がする。

そういう意味では、放射性物質にも存在意義があるとは思える。

でも、それ以上に、すべての物質、生命は、別に僕達の為にあるわけじゃない。

存在意義とか、善悪とか、そういうレッテルを、一緒に生きている生命達に貼っていく事自体を辞めていきたい。

シンプルに、僕達が被ばくと向き合ってきた歴史自体が、現在進行系で成長を続けていて、その一端に僕達がいるという認識を持っている。

「ま、見なくていいんじゃない」
「気にしなくていいよ」
という人もいるけれど、気にすることを止めることは難しい。

河原に生える蓬やハコベの存在に、いちいち立ち止まって、摘んでは食べたり、チンキにしたり、干したり、いろいろな事に使ってみる人に対して「気にしなくていいよ」というのが余計なお世話なのと一緒で。

世界に原発は何百基もある。

使用済み核燃料は、日本国内だけで約18000トンある。

核兵器も各国にどっさりある。

それらの産業に携わる労働者は数千万人〜数億人単位で存在する。

「味噌汁がいいよ。」

「腸を詰まらせないほうがいい。」

そういうことを実感を元に伝えたいし、味噌を作ったり、味噌汁を配ったり出来る状況も、作りたい。

味噌をどこかに貯めておいて、何かあったらすぐ配れるように。

いつでも味噌汁の炊き出しができるように。

放射線、電磁波、紫外線、抗生物質、化学物質、様々な人工的な物質やエネルギーに過敏な人も増えている。

サナトリウムや保養所も、たくさん作っていけるだろう。

ウクライナ、ベラルーシには、国営の被ばく対策ための保養所がある。

1年中、子どもたちを受け入れる体制が出来ている。

日本で、そこまでいくのに時間はかかるだろう。

でも、一歩ずつ。

古民家再生と一緒にやっていけないだろうか。

とかなんとか。

ということで、まずは保養キャンプ、全国の保養団体を、大切にしたい、みんなで。

そして、放射線の身体に与える影響、その研究を、噛み砕いたり、わかるように説明したり、していきたい。

漬物や味噌や野草や、一汁一菜や、よく噛むことや、よくからだを使うことなど、ダメージを受けた身体のちからを取り戻す生活の知恵も身に付けていきたい。

そして、原発や巨大産業に便り過ぎなライフスタイルを、手仕事、地域産業、自分たちで文化を作っていくようなライフスタイルにシフトさせていく道をつくっていきたい。

絶望や闇や恐れは、悪いものじゃない。

少なくとも僕にとっては、被ばくを通じて味わったそれらは、善でも悪でもない。

ただ、ウラン、セシウム、強烈な鉱物粒子のインパクトを受けて、「自分はどう生きるか」を問われた気がする。

答えはまだない。

問いは続く。

生まれ続ける問いへの応答を、続けたいと思う。